16歳に一点集中し中心核を完成し全体全面まで広げ広がり成る。
16才に過去に遡り軌跡道程も枠に力を得る。毎日図書館に通って文学書哲学書等を読んで株や企業や経済の勉強をして、進化成長発達発展し続ける毎日だ、内面的にも外面的にも変化変質変貌変容し続け変転極まる。勉強に勉強を重ねて鍛えに鍛え込み抜き上げ引き締め締まり全身筋肉と力と能力と気とエネルギーの塊になった。また性欲が復活する、全身性器状態、女も抱ける。16才と同一体化、完全統結融合一致して、16才の16才以上の軌跡道程の力を得る。キリスト教の愛の教え？神を愛せ、全体を愛せ、16歳を中心核を愛せ。それが開かれるのを見、その内部に押込んで行った者は発見するであろう。第一には、ただこの言説だけが内に意味を包蔵していることを、次にはそれが極度に神々しく、徳の像をきわめて多く内に蔵していることを、またそれは気高くかつ優良になろうとする者が目指すべき非常に沢山の、というよりもむしろ、一切のものを包括していることを。毘廬舎那仏はすべての仏の世界を統括する偉大な如来であるが、これを更に密教の思想に基づいて発展させたものが大日如来である。大日如来はいわば全宇宙を神格化したものといえる。宇宙にはあらゆる物質的なものと精神的なものが含まれているが、大日如来の中には宇宙の森羅万象がすべて含まれ、そこからまた森羅万象が現れ出てくると考えられている。いわば、仏教の世界におけるブラックホール、それが大日如来なのである。毘廬舎那仏は三千大千世界（無数の仏の世界）を隅々までくまなく照らす。その光明が及ぶ範囲は文字通り天文学的数字である。しかし、大日如来の照らす範囲はこれよりも更に広い。宇宙の果てを突き抜けてあらゆるものを照らし続けるのである。このことから密教では釈迦如来をはじめとするすべての如来や菩薩、明王などは大日如来の化身とされる。金剛界大日如来とは如来を智慧の面から捉えたものである。森羅万象は大日如来の智慧が創り出したと考えられる。金剛はダイヤモンドの意味。これに対して胎蔵界大日如来は、その無限の慈悲の面から捉えたものである。宇宙の一切の存在や現象は母の母胎のような大日如来の中に優しく包まれていると考えられる。胎蔵界大日如来に優しく包み込まれている万物は、金剛界大日如来の智慧によって様々な存在現象として現れ出てくる。胎蔵界は静、金剛界は動であり、この両者が揃ってはじめて密教の世界観が成り立つ。密教の世界観をビジュアルで表現したものが曼荼羅であるが、ここでも胎蔵界曼荼羅と金剛界曼荼羅という一対が揃ってはじめて曼陀羅は完成する。すべての仏を包括する偉大な大日如来、太陽のように常に宇宙の中心にあって全宇宙を照らし続けている毘廬舎那仏、光明遍照、浄満、広大無辺な世界の中心にいる。永遠の宇宙の真理をあらわした。如来は真理を完全に悟って、完全な人格を備えているといわれている。如来は完全に修行を終了しているのであって、その点がまだ修行中の菩薩とは大きく異なる。この意味で、如来は菩薩などよりも位がずっと高い。だから、釈迦三尊像などで釈迦如来が普賢菩薩と文殊菩薩を脇侍として従えている。釈迦は出生と同時にその偉大さをあらわしたと仏伝は伝えている。彼は生まれてすぐに「天上天下唯我独尊」と言ったという。つまり、この広い宇宙の中で自分一人が尊敬に値するものだと宣言したというのである。阿弥陀如来、無量寿如来と無量光如来という二つの呼び名、どこまでも無限に広がっている、無限の寿命をもった無限に慈悲の光を放ち続ける仏、阿弥陀如来の不思議な力にすがれば必ず極楽往生できる。文殊菩薩の智慧と普賢菩薩の行が備わることによって、仏教の教えは完全なものとなり、釈迦如来の無限の慈悲も真の輝きをあらわすことができる。このようなわけで、文殊・普賢の両菩薩を脇侍とした釈迦三尊像が作られのである。観音菩薩は仏、菩薩、明王、天の姿をとることは勿論、老若男女、貴賤のあらゆる姿で我々の前に現れて救いの手を差し伸べる。三十三という数は無限をもあらわし、その姿は無限である。存在するものの厚みを欠いて存在することは、その中で様々な存在者が了解可能なものとなる光である。このような場合、観相には存在論という一般的な名称が相応しい。存在論は〈他〉を〈同〉へ連れ戻す。形而上学、超越、〈同〉によって〈他〉が迎え入れられるということ、つまり《私》が〈他者〉を迎え入れることは、具体的には、〈他〉によって〈同〉が問いただされることとして、言い換えるなら倫理として生起する。倫理が知に属する批判的な本質を実現する。批判が独断論に先行するように、形而上学は存在論に先立つ。外部から私に到来するものを、私が永遠の昔から所有していた。つまり自由である。その自由の究極的な意味は〈同〉における永続性に由来するのであって、その永続性が〈理性〉と呼ばれる。認識とは、こうして、そのような同一性を展開することである。認識は自由なのである。至高の理性は自分自身だけを認識し、理性が最終的には一箇の自由のあらわれであり、他なるものを中立化して包括する。〈他なるもの〉が中立化されて、主題あるいは対象となり、あらわれるということ、明るみの中に置かれること、他が同に還元される。ソクラテス的な真理の理想は〈同〉が本質的に自己充足していること、〈同〉がそれ自身であることに自ら同一化していること、つまり〈同〉のエゴイズムにある。その意味で哲学は自我論なのである。諸性質のうちに体験されるものの本質を認めることで、主観と対象とを分離する隔たりを踏み越えた。思考が存在者を存在に向けて超越するのに応じて存在者は了解され、存在者がそこで姿を現す地平において存在者は測られる。存在者は自分を踏み越えている地から出現するのであるけれども、それは個体が概念からあらわれるのと同様なのである。存在から出発して存在者に接近することは、存在者を存在させることであると同時に存在者を理解することである。存在は（時間として展開する）存在の理解と分かちがたく、存在とはそのまま主観性への呼びかけである。存在者を把持し、存在者を（知の関係のもとで）支配することを可能にし、正義を自由に従属させる。主題化も概念化も〈他なるもの〉を抑圧し所有することである。「私は考える」は「私は出来る」に帰着する。存在するものの領有、実在の搾取に帰着する。存在の真理への聴従は、建築し開墾しつつ実存することとして現成することになるが、そのことによって、空間の根底にありそれを統一する場所が成り立つ。大地の上で、天空の蒼穹のもとで現存しつつ神々を待ちながら死すべき者たちと共にあることを、現存することのうちに今一度統合する。所有とは〈他〉が私のものとなることで〈同〉と化する際立った形式である。
