意識上にも現実にも時間も空間も人も人間も肉体も枠も大きく遥かに飛び出し超越超絶している。時間も空間も出来事も純粋経験やら全体の中で意識が作った枠である。
物理学者のいうような、すべて我々の個人の性を除去したる純物質という如き者は最も具体的事実に遠ざかりたる抽象的概念である。原始的説明は神話においてのように凡て擬人的であったが、純知識の進むに従い益々一般的抽象的となり遂に純物質という概念を生ずるに至った。最も根本的なる説明は必ず自己に還ってくる。宇宙を説明する秘鑰はこの自己にある。ニュートンやケプレルが見て以て自然現象の整斉となす所の者もその実は我々の意識現象の整斉である。意識はすべて統一に由りて成立する。而してこの統一というのは、小は各個人の日々の意識間の統一より、大は総ての人の意識を結合する宇宙的意識統一に達する。自然界というのはかくの如き超個人的統一に由りて成れる意識の一体系である。我々が個人的主観に由りて自己の経験を統一し、更に超個人的主観に由りて各人の経験を統一してゆくのであって、自然界はこの超個人的主観の対象として生ずる。自然の存在は我々の同胞の存在の信仰と結合されている。自然界の統一というのも畢竟意識統一の一種である。精神と自然の二者の区別は同一実在の見方の相違より起る。直接経験の事実においては、物即心、心即物、ただ一箇の現実あるのみである。かくの如き実在の体系の衝突即ち一方より見ればその発展上より主客の対立が出てくる。実在体系の衝突の時、その統一作用の方面が精神、対象としてこれに対抗する方面が自然と考えられる。かかる実在は両者の合一において始めて完全なる具体的実在となる。精神と自然は元来同一の統一の下にある。同一なる直接経験の事実その物が見方に由りて種々の差別を生ずるものとすれば、実在の根柢たる神とは、この直接経験の事実即ち我々の意識現象の根柢である。すべて意識現象は体系をなした者、超個人的統一に由りて成れる自然現象もこの形式である。統一的或者の自己発展というのが凡ての実在の形式であって、神とはかくの如き実在の統一者である。宇宙と神との関係は、我々の意識現象とその統一との関係である。思惟においても意志においても心象が一の目的観念に由り統一せられ、凡てがこの統一的観念の表現と看做なされる如くに、神は宇宙の統一者であり宇宙は神の表現である。この比較は事実である。神は我々の意識の最大最終の統一者である。我々の意識は神の意識の一部であって、その統一は神の統一より来る。小は我々の一喜一憂より大日月星辰の運行に至るまで皆この統一に由る。ニュートンやケプレルもこの偉大なる宇宙的意識の統一に打たれた。宇宙の統一者であり実在の根柢たる神とは如何なる者か、精神を支配する者は精神の法則である。精神現象とはいわゆる知情意の作用、これを支配する者はまた知情意の法則、精神の背後に一の統一力あり現象はその発現である。この統一力を人格と名づくるならば、神は宇宙の根柢たる一大人格である。自然の現象より人類の歴史的発展に至るまで一々大なる思想、大なる意志の形をなす。宇宙は神の人格的発現ということとなる。神においては知即行、行即知であって、実在は直に神の思想でありまた意志である。イリングウォルスという人は『人および神の人格』と題する書中において、人格の要素として自覚、意志の自由、および愛の三つをあげている。自覚とは部分的意識体系が全意識の中心において統一せらるる場合に伴う現象である。自覚は反省に由って起る、而して自己の反省とはかくの如くに意識の中心を求むる作用である。自己とは意識の統一作用、統一に伴い内に省みて一種特別なる自己の意識を得る。真の自覚は意志活動の上にあり、神の人格における自覚というならば、この宇宙現象の統一が一々その自覚である。すべて我々の精神を支配する宇宙統一の念は神の自己同一の意識、万物は神の統一に由りて成立し、神においては凡てが現実である、神は常に能動的である。神においては時間空間は宇宙的意識統一に由りて生ずる、神においては凡てが現在である。時は神に由りて造られ神は時を超越するが故に神は永久の今においてある。神は凡てが自己である。真の自由とは自己の内面的性質より働くといういわゆる必然的自由の意味、神は万有の根本であって万物悉く神の内面的性質より出づるが故に神は自由である、この意味においては神は実に絶対的に自由である。神は凡ての実在の根底として、その愛は平等普遍であり、且つその自己発展その者が直に我々に取りて無限の愛である。万物自然の発展こそ特別なる神の愛である。元来愛とは統一を求むるの情である。自己統一の要求が自愛、自他統一の要求が他愛、神の統一作用は直に万物の統一作用であるから、神の他愛は即ちその自愛である。我々が自己の手足を愛するが如くに神は万物を愛する。神は人格的であるというも主客物我同一の純粋経験の状態に比すべきもの、この状態が実に我々の精神の始であり終であり兼ねてまた実在の真相である。基督が心の清き者は神を見るといい、また嬰児の如くにして天国に入るといったように、かかる時我々の心は最も神に近づいている。神はかかる意味において宇宙の根柢における一大知的直観と見ることができ、また宇宙を包括する純粋経験の統一者と見ることができる。かくしてアウグスチヌスが神は不変的直観を以て万物を直観するといいまた神は静にして動、動にして静といったのも解することができる。すべて意識の統一は変化の上に超越して堪然不動、変化はこれより起る。意識の統一は総ての範疇を超越している。万物はこれに由りて成立する。天は到る処にあり、汝の立つ処行く処皆天あり。最深なる内生に由って神に到る。一般性の限定せられたものが個人性となる。一般的なる者は具体的なる者の精神である。一般性の発展したものが個人性となる。個人的人格の要素たる意志の自由ということは一般的なる者が己自身を限定するの謂である。神は我々の個人的自己のように具体的統一である。即ち一の生きた精神である。かくの如き神性的精神の存在は実地における心霊的経験の事実である。自己の個人的意識の深き底から自己の個人が溶解して無限の実在となる、意識は最も明晰確実である。根底にある本来の意識が強くなり遂には一の純粋なる絶対的抽象的自己だけが残る。実在は精神的であって我々の精神はその一小部分であるとすれば、我々が自己の小意識を破って一大精神を感得するのは当然、小意識の範囲を固執するのがかえって迷、偉人には必ず常人より一層深遠なる心霊的経験がある。
