神への全体への依存は限りない安心を得られる。
善は何か、意志は意識の根本的統一作用であって直にまた実在の根本たる統一力の発現である。意志は己自らの為の活動である。意志活動の性質の根底には先天的要求（意識の素因）なる者があって、意識の上には目的観念として現れ、これによりて意識の統一するにある。この統一が完成せられた時、即ち理想が実現せられた時満足の感情を生じる。行為の価値を定むる者は一にこの意志の根本たる先天的要求にあり、能くこの要求即ち吾人の理想を実現し得た時にはその行為は善として賞賛せられ反した時は悪として非難せられる。善とは内面的要求即ち理想の実現換言すれば意志の発展完成である。アリストテレスに従えば人生の目的は幸福である。快楽より完全なる活動に由る。善は幸福である。自己の要求を充すまたは理想を実現するということは、いつでも幸福である。最も深き自己の内面的要求の声は大なる威力を有する、人生において最も厳なるものである。善とは理想の実現、要求の満足、意志は意識の最深なる統一作用であって即ち自己其者の活動、本来の要求或は理想も自己其者の性質より起る、自己の力である。我々の意識は思惟、想像においても意志においても知覚、感情、衝動においても皆その根底には内面的統一なる者が働き、意識現象は凡てこの一なる者の発展完成である。而してこの全体を統一する最深なる統一力が自己、意志は最も能くこの力を発表したものである。意志の発展完成は直に自己の発展完成、善とは自己の発展完成である。精神が種々の能力を発展し円満なる発達を遂げるのが最上の善である。人間が人間の天性自然を発揮するのが人間の善である。徳とは自己固有の性質に従うて働くの謂。ここにおいて善の概念は美の概念と近接してくる。美とは物が理想の如くに実現する場合に感ぜらるる。理想の如く実現するというのは物が自然の本性を発揮する謂。花が花の本性を現じたる時最も美なるが如く、人間が人間の本性を現じた時は美の頂上に達する。善は即ち美である。善の概念は実在の概念とも一致してくる。一の者の発展完成というのが凡て実在成立の根本的形式であって、精神も自然も宇宙も皆この形式において成立している。今自己の発展完成であるという善とは自己の実在の法則に従うの謂。自己の真実在と一致するのが最上の善である。道徳の法則は実在の法則の中に含まる、善とは自己の実在の真性より説明できる。内面的要求と実在の統一力とは一つ、存在と価値とを分けて考えるのは知識の対象と情意の対象とを分つ抽象的作用よりくる、具体的真実在において両者は元来一である。善を求め善に遷るとは自己の真を知ること、合理論者が真と善とを同一にしたのも一面の真理を含んでいる。知るとは体得の意、「すべての実在は善なり」という句がある。一生の意識も統一せられたる一体系である。全体の統一に自己と名づけた。良心とは調和統一の意識作用である。人間は肉体より観念の上に生命を有して居る。プラトンは人心の組織を国家の組織と同一視し、理性に統御せられた状態が国家においても個人においても最上の善といっている。意識は元来一の活動、その根底にはいつでも唯一の力が働き、知覚とか衝動とかいう瞬間的活動にもこの力が現れて居る。更に進んで思惟、想像、意志という如き意識的活動に至れば、この力が一層深遠なる形において現れてくる。意識内容はこの力に由って成立する。綜合の上に厳然たる一事実として現れる。本能作用とは有機作用より起る一種の物力、人格とは意識の統一力である。自己を忘れたる所に真の人格は現れる。真の意識統一というのは自然に現れ来る純一無雑の作用、知情意も主客も一つの独立自全なる意識本来の状態である。真人格はその全体を現す。人格は天才の神来の如く直接に自発的に活動する無限の統一力である。意識現象が唯一の実在であるとすれば、人格とは直に宇宙統一力の発動である。物心の別を打破せる唯一実在が事情に応じ或特殊なる形において現れたものである。善とは偉大なる力の実現、その要求は極めて厳粛である。カントも「我々が常に無限の歎美と畏敬とを以て見る者が二つある、一は上にかかる星斗爛漫なる天と、一は心内における道徳的法則である」といった。総括していえば、善とは自己の内面的要求を満足する者、自己の最大なる要求とは意識の根本的統一力即ち人格の要求、これを満足する事即ち人格の実現が絶対的善である。人格の要求とは意識の統一力であると共に実在の根底における無限なる統一力の発現である、人格を実現するというはこの力に合一するの謂。人格は凡ての価値の根本、宇宙間においてただ人格のみ絶対的価値をもつ。肉体的欲求も精神的欲求も、富、力、知識、富貴、権力、健康、技能、学識、芸術等種々貴ぶべき者も、いかに強大なる高尚なる要求も、人格的要求の一部または手段としてのみ価値を有する。善行為とは凡て自己の内面的必然より起る行為、全人格の要求は直接経験の状態において自覚できる。人格は心の奥底より現れ来って、徐に全心を包容する一種の内面的要求の声である。人格の内面的必然即ち至誠というのは知情意合一の上の要求である。自己の知を尽し情を尽した上において始めて真の人格的要求即ち至誠が現れてくる。自己の全力を尽しきり、殆ど自己の意識が無くなり、自己が自己を意識せざる所に、始めて真の人格の活動を見る。多年苦心の結果、技芸内に熟して意到り筆自ら随う所に至って始めてこれを見る。人格の発現は最も厳粛なる内面の要求に従う。艱難辛苦の事業である。自己の真摯なる内面的要求に従うこと、即ち自己の真人格を実現するということは、自己の主観的妄想を尽くして全然物と一致したる処に、自己の真要求を満足し真の自己を見る。真の自己は目の前に現れたる独立自全なる実在の体系その者、最も真摯なる要求は客観的世界の理想と常に一致している。自己の最大要求を充し自己を実現するということは、自己の客観的世界を実現するということ、客観と一致する、この点より見て善行為は必ず愛である。愛というのは凡て自他一致の感情、主客合一の感情、プラトーは「愛は欠けたる者が元の全き状態に還らんとする情である」といっている。真の善行とは主客相没し物我相忘れ天地唯一実在の活動あるのみなるに至って、甫めて善行の極致に達する。客観世界は自己の反影といい得るように自己は客観世界の反影である。意識の統一力であって兼ねて実在の統一力である人格は、先ず個人において実現せられる。容貌、言語、挙動の上にも個人性が現れている。この個人性は種々の経験と境遇とに従うて種々の発展をなす。科学者はこれを脳の素質に帰するであろうが、余は実在の無限なる統一力の発現であると考える。個人性の実現が最も直接なる善である。実現は無上の満足を与え、宇宙進化の一員とならしむ。真に偉人とは強大なる個人性を発揮した為、能く自分の本色を発揮した人が偉大であると思う。肉体の本は祖先の細胞にあり、子孫と共に同一細胞の分裂に由りて生じた者、生物の全種族を通じて同一の生物と見る。我々は互いに悦ばしげに翼を羽ばたき、囀り交わしながら、認識と推測との貴重な一瞬間を生きて、太洋の誇りをもって、精神のうちにおこる太洋上へと冒険を求めて出て行く。
