純粋培養された超戦士である。
そのもの全体全面まで俺も個体としての中心核枠も16歳丹田から生まれ始まり広がっている。造化の働きは自謙であり絶対である。必然にして十分、絶対者、神道ではこれを命と言う。自己を絶対者にするということは、自分自身純一になるということ、其の意を誠にするということ、道の本体、徳の本体、故に君子は必ず其の独を慎むなり。慎独とは絶対的存在、自分自身を絶対化することを慎独という。独自とは絶対的な自己、即ち自ら成り立つこと。独善とは自分だけはあくまでも善に生きるということ、意を誠にする、即ちそれが善、全体の統一。宇宙の威力というものが、人間生活の転変と建設という事業の上にいかに大きく覆い被さっているかということを身をもって感じた。本当に素晴らしく良く出来た顔ね、惚れ惚れするわ。拘りを柵を捨てろ、濁った心も飛んだ、胸の中身も主要大部分中心核にある。中古自転車で走っていた二十歳のように脂肪を燃焼して顔も身体も熱い。毎日毎日激しい知的衝動衝撃と精神的苦痛と快楽と陶酔と焦燥の嵐だ。時間軸のスケールが全然大きい、無限に永遠、時空間の概念さえ飛び出し超越している。今１６歳でも全歳でもある。俺の枠の全身の全部の力も対象との相手との現実合一の為に使い切って尽くし果たしてしまう。常に精神を全身全能力を全体との合一と16才から16歳以上の枠の為に統一点集中する。16歳に繋がっているからその間の軌跡道程も枠だ。人間世界の全体を眺め渡し、迫り来るところの且つは瞬時毎に出会われるところの凡ゆる種類の危険と害悪に対抗して、生活と現存在のために、肉体と精神の一切の力を奮い起して戦っているところの戦闘と激烈な格闘が到る処に見うけられる。あの妖怪のように異様な感じが良い。枠全身丸ごと己の自分自身の本体である。俺の枠の汚く濁った心も本体である主要大部分中心核にある。本体たる主要大部分中心核の濁った心だ。如何になすべきかということよりは如何にあるべきかということが大事。古典に参じ先哲に学ぶ、古典と先哲の世界というものは、苛立つ神経を緩め、分裂しておる精神を統一して生きさせる大きな力がある。西洋では先ず少年時代から与えられる書物が聖書バイブル、次に一応親しむものはソクラテス、プラトン、それからセネカの論文集、プルターク英雄伝、フランスの有名なモラリスト、モンテーニュは頻りにセネカとプルタークを引用している。プルタークより司馬遷の史記の方が遥かに立派で力がある。若し史記を本当に訳出する事が出来るならば、どんなにか世界の驚異になるか。大体西洋のものは東洋に訳しやすいが東洋のものは西洋に、殊に漢籍古典を訳することは至難の業であります。そこに漢字の特殊な生命、貴重な意味と同時に欠点があり、それだけに真の生命を得ようとすれば尚更のこと原典による。「草木国土悉皆成仏」皆仏になるという壮大な気宇の中に暮らしている。この思想は仏教の本場インドより中国より日本で花開いたもの、古来日本人は自然現象を生きとし生けるものの生き方の現れだと考えてきた。その成熟した自然観は仏教に出会い議論が重ねられる中で吟味されていった。日本人固有の情感に仏教の論理性を加える企みによって、草木国土悉皆成仏の信念は、私たちの中に根を下ろした。およそ一切の者は有情無情を問わず昇進する時に発修する。本覚とは「あるがままの具体的な現象世界をそのまま悟りの世界として肯定する思想」日本人はこの独自の哲学によって草木を依報から救い地水火風をすら成仏させた。日本人は深く自然を愛し、命との相通を感じては四季の移ろいを楽しむ。四季の変化を本覚し秩序ある宇宙への回帰を成仏という悦楽において見た。１０世紀以降の日本人は、限りなく仏教が浸潤した自然を所有することになった。無から生まれたミクロの宇宙は急激な膨張によって生物の住めるマクロ宇宙に広がった。人類をも含む多様で美しい現在の宇宙が創られるまでの１３７億年の旅。司馬遷の史記は、実に多種多様、変化に富み読むに従って或いは感激せしめ或いは瞑想せしめ或いは限りなく想像の翼を広げさせ内容豊かな精神の籠もった流石に人類歴史の宝典であります。武道の一流一派を打ち立てた開祖になった剣聖は、剣道の上の非常な苦心の果てに、よく神社や仏閣に参籠して神仏に祈念をこらす、精進潔斎して修練をする。へとへとになって没我の境地になった時に夢に極意の伝授を神仏から受け取る。哲学や信仰の世界でも科学研究に於てさえそうです。学的態度は色々あるが、最後は全身全霊を打ち込んで身体までが熱くなる、夢にまでその書物を考える、著者に会う。知らず識らすのうちに著者の気迫とか霊感が乗り移って来る。ささやかな自我、今日を脱却して、直ちに永遠、時間、空間の枠を超越して三千年の昔に融合し所謂永遠の生命、永遠の精神の中に生きる。学問や学理には抽象的理論が必須である。抽象的思惟には必ず具体的実践が伴い、学問にも抽象的思惟を主とする学問と、具体的行為、実践の裏付けになる学問の両方がある。人間の生活・存在に関する学問は、抽象的思惟から段々具体的な直観に深く入ってゆく。自然科学は最も純粋な抽象理論の上に立ち、それだけに応用・実験を重んじて、その学理を根底に実現に勉める。人間の脳は生まれ落ちると同時に必要な細胞はすべて具わっている。脳生理学が進歩して、大脳皮質が段々発達して洗練訓練され古い皮質と新しい皮質が統一されて抽象的思惟・判断・論理的思考が本能的感情・直覚と一緒になって、ダイナミックな深遠な直観や無意識の動力になる。東洋では昔から、西洋でも宗教学者、哲学者の中でも神秘派に属する人達はそういう見解を持っておる。労働智（機械的な頭の働き）→創建智（建設的な力）→解脱智（本能や感情を統一して世俗を脱け出たもの）＝聖智・・思想や学問は、理屈っぽい段階から直観的になって来て、物自体を動かす動的な力、感化力のあるものになる。具体化して来る。その人の顔に一挙手一投足、一言一行に表れる。人相、人格、言動も思想・学問も一つになる。真理・哲学が身になる、体現、真理・学問は彼の相となる。それが動いて行動に生活に社会生活になる。これを運と言う。初めて本当の学である。学はその人の相となり運となる。それが更にその人の学を深める。相と運と学とが無限に相待って発達する。本当に自己を実現する。面は相、相とは自己実現、人間の皮膚は生きたもの、特に顔面皮膚は最も鋭敏で体内のあらゆる機能が悉く顔面に集中しておる、所謂面皮に集中しておる。本当の学問は心相一如である。
