また顔も身体も若返り引き締まった。
理想の相手なら自己実現にも大きな支えになってくれる。株はもう駄目？大幅な損が出てしまっている？自分の口座に無限の巨額莫大な金を振り込み入れ入って宝くじも当て当たるだけだ。これからは有料の携帯コンテンツ事業は先行き暗い？ソフトバンクＳＢＩグループも完全開放の流れに乗り遅れている？生まれて来た意味、生きる目的は、意識の上で宇宙全体と一つに合一すること、肉体の枠としても16歳以上になること、若いくせに何だ、この異常な落ち着きは・・大した16歳も居たものだ。丹田から正中線も枠→16歳から軌跡道程も中心核→16歳丹田から軌跡道程正中線も中心核枠である。あらゆる外面的なものによる充ち足りた状態は、内的なものや不可視なものに対する憧憬を誘致した。キリストにおける神の受肉《人間化》、神は永遠に時の外にある、神の受肉は永遠よりの受肉なのである。人間キリストは現象においてはただ絶頂であって、その限りにおいてまた現象の発端である。秘教的なものがかくて現れて、その覆いを棄てて己の輝きを放つ。一切の形成と創造の永遠なる精神は秘教的なものを、新しい、そして持続する形式をもって装うだろう。東洋と西洋が同一の形成の中で相互に近づき、対立するものが触れ合うところには必ず新しい生命が燃え上がる。絶対者そのものが自然と歴史という二つの姿のうちに同一のものとして現れるように、神学は実在的学問の無差別点として、一面には歴史学に、他面には自然学に分かれ、その各々は、その対象を他から分離し、そしてまさにそのゆえにまた最高の統一からも分離して考察する。各々が己のうちに中心点を回復して根本知へ遡及する。天才といわれたシェリングも近代哲学の巨人ヘーゲルの前に精彩を欠いた？幾多の輝かしい思想の峯を越えて、この書に至って最も高い頂に達した。そしてそこから振り返って、今まで自分の歩んできた諸々の思想体系を自ら批判し、またその各々のものの意義を規定している。精神的な自然存在の本質としては、まず理性と思惟と認識が数えられるから、自然と精神との対立は当然この側面から考察された。今では対立のかの根は引き抜かれている。そして、よりよき認識への一般的進歩は、より正しい洞察を確保するであろう。我々はそれに委せて安んじてよい。今やより高い或いはむしろ真の対立が、すなわち必然と自由との対立が、現れいずる時である。そしてこの対立と共に哲学の最内奥の中心点も考察に上ってくるのである。そのもの全体全面まで俺を支配統制統括総括しているのが中心核だとすれば枠に成り中心核枠として支配統制統括総括する。自由概念と世界観全体との連関は恒に一つの必然的課題の対象、この大なる課題だけが、認識に向かっての、最低のものより最高のものに至るまで一切の努力の、無意識的な刺衝をなす。唯一存在者における絶対的因果性は、他の一切の存在者にただ無制約なる受動性を残すのみである。一切の世界存在者は神に依存し、彼らの存続すら絶えず新たにされる創造であり、この創造においては有限な存在者は限定された個別的な思想・努力・行為をもった者として生産される。人間はその自由と共に神的存在者そのものの内へ救い上げ、神の内にあり、彼の働きも神の生の一つとしてその生に属する。神と共に生きる。まさしくこの点から、すべての時代の神秘主義者たちや宗教的心情の人々は、人と神との合一の信仰に達しているのであって、この信仰は最も心深い感情に対しても理性や思弁に対してと同じくらいに、或いはより一層に、訴えるところあるものと思われる。汎神論は神と万物との全き同一視、被造物と造物者との混淆、に成り立つ。神とはそれ自身のうちに有りかつそれ自身からのみ把握されるごときものである。しかるに有限なるものは、必然的に或る他のもののうちに有りかつただこの他のものからのみ把握され得るごときものである。神は唯一人自立的にして根源的なるもの、唯一人自己自身を肯定するものであり、これに対しては他の一切が単に肯定を受けたもの、単に理由に対する帰結、のごとくに関係し得るのみである。神が永遠であるのはその本性上からである。万物が永遠であるのはただ神と共に、そして神の現存在の帰結として、すなわち被導出的な仕方においてである。強いところを更に強化し同時に改革を進める。心はもうズタズタだ、破綻している。歴史の至上の法則は真理たるべき、劇において筋を構成するのと全然同じである。劇においては個々の筋はその前のものから、結局一切は最初の綜合から、必然性をもって生じて来る。事物の順序そのものは、事物の一層高い秩序から、はじめて考え得る。経験的諸原因が悟性を満足させつつ、一層高い必然性の現象の道具或は手段として用いられてはじめて理性にとって歴史は完成に達するといえる。そのような叙述においては、歴史は必ずや無限なる精神においてのみ創作される偉大にして最も驚歎すべき劇の効果をもち得るのである。我々は歴史学を芸術と同列に置いた。芸術の表現するのは常に必然と自由の同一であり、この現象は、特に悲劇において、我々の驚歎の本来の対象である。同じこの同一は、歴史にとって同時に哲学の立場であり宗教のそれでもある。宗教は摂理のうちに世界の構想において人間の自由を普遍的必然性に結び合わせ、反対にまたこれを彼に結び合わせる智慧そのものを認識する。歴史学は自由と必然との同一をそれが現実の観点から現れるような意味において叙述する。全体として歴史学は、定められた終始なき叙事詩の様式にならって考察される。最も重要で関心を牽くと思う点を取り出して、そこから全体をあらゆる方向に向かって形成し拡張して行く。
