今だって16歳に軌跡道程に全体全面に生きて居る。
中心に居座れ坐れ据われれば16歳丹田から生まれ始まり広がる軌跡道程正中線通る中心核枠に成れるのは確実だ。16歳に釘を挿して枠ごと中心核に引っ張って持って行くだけだ。16歳を取り込み入れ16歳から広がり16歳以上の今枠である。16歳は頭も顔も良く背高く筋骨肉逞しく優れていたんだ、あの16歳に16歳以上になるんだ。目の前の日、お前を神のものとしてたたえよう！勤勉、男らしく立派な勤勉は、すべて朝のものであるからだ。一時間に一分は六十ある。一日には千をこえるほどある。幼子よ、覚えておくがよい。人は何事でも成し得るのだと。かかる労苦を神を与えたもうた。巨人的な天をも襲う心、詩人は、人間の運命について永遠者と語り合う枠も己の主要大部分と一つになり、完全統合一致体たる中心核枠となる。われ蝋印を押すがごとく千年に賭けて誓はん。ウエストが細くなって引き締まって筋骨肉逞しい逆三角形の上半身に脚長く骨盤大きい下半身に素晴らしい身体になった。常に全体と個が同時に問題となる。専門に分けるなどということは、全体という大海原、昨日、今日、明日という途方もないものを、怖れ怯んだ人間の発明したものです。神智学、即ち、意味への愛は全体への憧憬である。意識にまで滲透する遡行運動、体験を遡行してみることは普通守られている慣習から表象作用を行う心を解き放ち明白なる事象の経過だけを思惟によって辿らせるが故に精神の鍛錬にとって特別の価値をもつものである。芸術が生命を得るのは、進化の段階と社会の本性に依存している。現代科学が、それによれば物質と力（魂）は一つのものであるという神智学の教理を確証して以来、物質と魂（力）が生命の本質を成すということが真実なら、私達は両者を共に考慮に入れる。創造とは両者の統一である。「生の弁証法」生が動物的なものを越えて精神の段階に進み、そして精神が今度は文化の段階にまで進むや否や、精神の中に一つの内部的対立があらわれ、この対立の展開、和解、また新たな発生が文化の全道程を形作ることになる。つまり、生の創造的な運動が或る形象、文化の諸形式を産み出すことによって生は現実化されるのだが、ここに産み出されたものはそれぞれ独自の論理性、法則性、意味をそなえたものとなって、生からは独立の自立的存在、更に生に対立する存在となってゆく。この生からの疎隔と対立が、やがてこの文化形式の生命の涸渇をもたらし、形式の形骸化を招来する。そして遂には、躍動する生から新たに生み出されてくる次の形式によってとって代わられることになる。これが文化の歴史性であり歴史に見られる文化形式の変遷だというわけである。生は形式を産み出し、形式をもつことで外的存在として現実化する。生の弁証法は文化の悲劇を内包する。人類の歴史舞台には、こうした文化形式の交代変遷が繰り返されてゆく。際立った特徴をもつ大きな文化期には、すべて精神の運動の出発点であり同時にその目標でもあるかに見える一つの中心概念がそれぞれ認められる。現に例えばギリシアの古典時代の中心概念は「存在」の理念にあった。そしてキリスト教的中世には「神」の理念がそれにとって代わった。ルネサンス以降になると「自然」の概念が中心的地位を占めるにいたり、十七世紀には「自然法則」の概念が、そして十八世紀にはそれと共に「自我」の概念が立ち現れた。十九世紀には多種多様な精神運動があり、人間的なものに限って言えば、「社会」という概念が大きく浮かび上がってきたかに見える。そして二十世紀の変わり目ころ今や漸く「生」の概念が中心的位置に迫らんとしている。俺の枠の軌跡道程には当然「16歳」だ。表現主義は「芸術家の内的感動がそれが体験されたままに、直接に体験の中へ持続されること、より正確に言えば、作品として持続されること」を求める。ヴァイオリンなり人の顔なりを見て画家が感動すると、この感動は彼の芸術家的エネルギーに変換されて、ついには全く別のように見える形象を生み出させることになる。表現主義の芸術家は、内容上ただ自己自身にのみ従順な生に運動の刺激を与える誘因をもってモデルに置き換えるのだ、と言ってもよかろう。生がある力によって駆り立てられた奔流の中で、美醜の彼岸にその意義をもつ。伝統的な様式・形式の立場からすると、断片的で分裂しており取り留めないものに見える。ここにおいては創造的な生はそれ自体真に卓越した豊かなものとなり、芸術作品におくる生の表現は、その時々の最も固有な宿命である。本来、あらゆる偉大な芸術家、偉大な芸術作品においては、芸術の完成されて意のままになった形式の彼方に生きているものが語り出す。形式を飛び出し越えるなにものか、情熱的に躍動する生、灼熱的な生がある。一方を突き抜けた先、極点に逆の一方の極点もあり、そして全体がある。
