他人への怨恨もぶっ飛ばし飛ぶ。時が経つほど時間が流れるほど、中心核に近付け付き、その身に心に16歳も軌跡道程も含め収めていくのだ。16歳に遡り一点集中し軌跡道程ごと枠に取り込み入れながら16歳丹田から広がる中心核枠、後悔すべき汚く恥ずかしい過去も飛ばし飛び書き換えられる。『コーラン』神の超越と同時に内在を感じるという神秘体験をした。神に付けられた形容句によれば、神は永遠、全能、全智にして唯一の実在であるとみられ、これを更に発展させて、神のみが存在し、人間は神と一つまたは神と同一であることを意味するとした。「神の御名において」「慈悲深く慈愛あまねきアッラーの御名において」「情深く慈悲深い御方」個人の摂理の中にも働く。我らは人間を創造した者。人の魂がどんなこと私語いているか、すっかり知っておる。我らは人間各自の頸の血管よりもっと近い。アッラーはあらゆることを知り給う。東も西もアッラーのもの。それゆえに汝らいずこに顔を向けようとも、必ずそこにアッラーの御顔がある。まことにアッラーは広大無辺、一切を知り給う。コーランは最高度に有神論的であり、しかもそこでは神が中心となっている。ムハンマドにとって神は、唯一の創造者、ただ一つの独立自存の実在であった。神以外の万物は本質的には存在しないという説は、後に神学者たちによって極端な理神論である絶対へと発展させられた。スーフィズムの神秘家たちのうちのある者たちにとっては、神はすべてであるが故に、世界は神の中へ溶け込んでいるのであり、結局、彼らは実質的な汎神論または一元論へ辿り着いた。ムハンマドの教えの豊かさと多様性がこういった発展を許した。神と人との間のいかなる分離も二つの主だった方法で克服された。第一の方法とは、は神の愛、神へ至る手段としての情熱的な憧憬、神との合一と見神、愛を世界が生まれる以前に神から選ばれた特別な魂への恩寵の賜物とみなした。もう一つの方法は、まさに神の超越と全能説そのものの中にある。それは予定説と自由意志の問題の中に現れるのであるが、そこで根本的な信仰としてあるのは、神が創造者であるから、一見人間の行動とみえるものも実はすべて神が創造するのだとする考えである。最終的に神学者たちは獲得あるいは専有という教義を考え出した。それは人間に、行動に対するある種の道徳的責任を与えるためであったが、この教義によれば、神が既に行ったことを人間は我が物とするのだという。実際には神はすべてであり万物の中に内在する。神は一つであるという教義は、神は唯一者、一つの真実在であることを意味すると解釈された。神と人間との間の無限の距離、淵は、全能の意志すなわち神の力業によって跳び越えられる。宗教的恍惚をめぐる理論と実践全体の背後に控える。神秘家の意識的自己は、突然の輝きの中で顕現する者の超越的栄光によって一つになる。神と人間を同一とする一元論へ導く。私は合一の身体と共に一羽の小鳥になった。私は合一の木を見た。貴方との合一によって私を飾って下さい。「私たちは貴方（すなわち神）を見た、貴方はそれである」被造者が神に出会った際に告白する。合一を求めて一切の我を捨て去り「我に栄光あれ。偉大なるかな、我が境地」と叫んだ。「タウヒード」アラビア語で「一つであること」「一なることを示す」ことを意味する。イスラム教スーフィーの一派では、唯一性を、創造された宇宙からの時間において作られたものからの永遠なるもの神の孤立と分離と定義し、魂を神の観念であり永遠なものであると見なした。魂は一時、有限の世界に落ち込むが、その経験により豊かにされ神的唯一性へ戻る。
インドには現世的と同時に来世的精神の双方に鼓吹されたいくつかの偉大な物質文明が栄えた。多くの様々な異なった方法で合一を求める神秘主義的探求、人々は人生の諸相の中に神的存在を見出した。
