全く何もない「無」＝「絶対真空」の中で、「素粒子」という超途轍もなく小さな粒子が突然発生することが証明されている。そしてその素粒子はエネルギーに変身、化ける事ができる。エネルギーになって突然発生したり消えたりするそうだ。「引力」とか「質量」とかもこれが原因らしい。つまり「無」から「有」が生まれ、「無」とは「可能性」の事だというのだ。この「素粒子」は地球上の日常でも満ち溢れるように行われている出来事だ。小さな枠にとらわれた精神は駄目だ、能力に限界があるとしても特殊化させちゃ駄目なんだ、常に絶対永久普遍として、そして時間的な永遠を意識する、時空間さえ超越するんだ。この時鎖骨を折った時に圧迫され、父親に矯正ベルトを変な形で付けられた事で更に圧迫されてしまった？あの時手術するべきだった？鎖骨折る前は多少マシな状態だったもんなー・・あの頃も今枠だ。あの時追浜古本屋店員が古本屋クビになって神奈川新聞の勧誘なんかやらされ苦しんでいたかも、その後他の奴にやられ抱かれてたかも・・「今日はー」と来た時にドアを開けるべきだった？気が狂いそうだ、何が何でも何としても救って抱いてやらにゃ・・これからやる。あれが生涯一二かな・・富永も林彩も失敗だった？この時高値で買ったゲームを馬鹿にされるような事まで言われ捨て値で売ってしまった大失敗だ。
格闘性能は超優れている自信あります。あらゆる思想は、もしそれが真実の力強い思想であるならば、多かれ少なかれ危険な毒を含む。もしも我々が世界の内には唯一つの原初的な素材や材料のみが存在し、この素材によってすべてのものがつくられているのだという想定から出発するならば、この素材を「純粋経験」と呼ぶのであれば、認識するという作用は、純粋経験の特定の部分同士が互いに持ちうる関係として容易に説明できるであろう。この関係そのものが純粋経験の一部分であり、その関係し合う「項」の一方が認識主観あるいは認識の所有者、認識者となり、もう一方が認識される対象となる。法華経の十如是、如是相・如是性・如是体・如是力・如是作・如是因・如是縁・如是果・如是報・如是本末究竟等、これを転回して是相如・是性如・・又これを三転して相如是・性如是・・くるくる廻してゆけば百如是にも千如是にもなる。自然とあらゆる教学に入って来る。生きた学問になる。樹木が自然に伸びて枝葉を張り花を開いたり実を成らせる。処々で果物が出来る。それを智果と言う。すべては縁から起こる、縁起が一番肝腎であります。かくして果が生じ、果は一つの因、種々の作用を起こして、果が果を生んでゆく。それが報であります。 「一切は同時に存在する」如是本末究竟等で同時存在、同時作用、軌跡道程も一つである。道をばずんと飛べ。人生において歩んでいる道の前途には多くの溝が横たわっているが、それが自分にとって正しい道ならば、信念と勇気を持って溝を飛び越えるべきである。未知への飛躍の決断は必ず万象の新しさに出会うのであり、生きるとは未来へのずば抜けた決断でなければならない。 
