全部の書も内容も字も完全に把握し覚えている。
神自身は最高の法則、一切のものの流れ出ずる所、諸力の生ける統一であると説明した。人格性とは、或る自立的なものとそれから独立なる或る基底との結合の上に基づくものとすれば、この両者が全く相貫き合って唯一つの存在者をなすとすれば、神はそのうちの観念的原理と独立である根底との結合によって、最高の人格性である。神のうちなる二つのもの基底と実存するものは、必然的に唯一絶対なる実存に合一するからである。或いはまた、両者の生ける統一を精神とすれば、神は両者の絶対的紐帯として、優勝的にして絶対的な意味での精神である。神を自然と結ぶ紐帯によってのみ神のうちの人格性が基礎づけられる。これに反して純粋なる観念論の神も、純粋なる実在論の神も、必然的に非人格的存在である。創造への第一の元初は自己自身を産まんとする一者の憧憬、すなわち根底の意志である。第二の元初は、それを通して言葉が自然のうちへ発言され、かつ神が初めて自らを人格的となすところの愛の意志である。自然のうちには人格と精神とがある。創造は一つの行である。神、すなわち神の人格が普遍的法則である。そして生起する一切は神の人格性によって生起する。法則は絶対的必然性の体系に対しての、叡智的にして自由な最高存在者の証明である。彼らは一切を超えて完全である智慧から由来する法則として、必然と恣意の中間に立っている。動力的な説明法の最高の努力は、かく自然法則を心情・精神・意志に還元することにほかならない。自己執持において、本質のうちに潜在的に含まれている一切のものの或る反射像が生じ、そのうちに神が自らを観念的に実現する、或いは自己の実現に際して予め自己を認識する。顕示への意志と反対に作用する傾向が神のうちにあるのであるから、顕示ということがあるためには愛と善意或いは自己分与が優勢となる。そしてこのこと、すなわち決断が、意識的なまた道徳的に自由な行としての顕示という概念を、初めて真に完きものにする。神の自然的本性から一切が絶対的必然性を以て帰結する？かかる必然性によって可能であるような一切は現実的でなければならぬ？神が本質的には愛や善意であるとすれば、神のうちにおいて道徳的必然的であるものもまた、一つの真の形而上的な必然性を以て帰結する。神はその完全性からすれば唯一つのものを欲し得る。神的悟性のうちには、神が自己を観念的に或いは原像的に実現する最元初的な智慧のうちには、唯一つの可能的世界があるのみである。それは唯一の神があるのみだからである。神的悟性のうちには一つの体系がある。神は一つの生命である。神は人格的な実存たるために、自己の内に或る制約を有する。神は制約を愛によって克服し、自己に従属させ、自己の栄光を顕すに役立たしめ得る。神自身のうちに一つの悲哀の源泉がある。超克の永遠なる喜びに役立っている。全自然の上に広がっている憂鬱のヴェール、あらゆる生命の深く抜き難いメランコリーもここよりくる。喜びは悩みを持たねばならず、悩みは喜びに変貌される。現動化された我性は、生命の鋭気のために必要である。我意の激発が起こるのは、人間の内なる愛が、自己を実現すべき素材すなわち対立者を見出さんがためにほかならない。神が混沌の無秩序な生産物に秩序を与え、また自己の永遠なる統一を自然のうちへ発言したということによって、神はむしろ闇に反対して働き、悟性なき原理の無規則な運動に対して、言葉を常住の中心かつ永遠の光明として対立せしめた。創造への意志は直接にはただ光の、かくしてまた善の誕生への意志である。神は先行的には自己のうちのすべての善を欲し、帰結的には最高善を窮極目的として欲する。形而下的悪は手段として欲する。道徳的悪は許容することを欲する。すべての生命は一つの運命をもち、苦悩や転化に支配されている。従って神が、人格的とならんがために、まず光の世界と闇の世界とを分けた既にその時、神は苦悩や転化にも自発的に服したのである。存在は転化においてのみ自らを感覚し得るものになる。存在のうちでは寧ろ存在自身が再び永遠として定立される。しかし対立を通しての実現においては必然的に一つの転化がある。古代における諸々の密議と精神的宗教のすべてに共通した、人間的に苦悩する神という概念、歴史全体を理解する。聖書も顕示の諸期を区別し、そして遥かなる未来として、神が一切中一切である時、すなわち神が全く実現される時を定立している。創造の第一期は、嘗て示されたごとく光の誕生である。光すなわち観念的原理は、闇い原理の永遠なる対立者として、創造する言葉であり、この言葉は根底のうちに匿されている生命を非有から救い出して、これを潜勢から現勢にまで揚げる。言葉の上に精神が昇ってくる。精神は、闇い世界と光の世界とを一つに結びつけ、かつ両原理を自己の実現と人格性のために従属せしめる、最初の存在者である。しかしこの統一に対しては根底が反動して元初的二元性を主張する。一切が成就され一切が現実的となってしまうまでは、根底の意志は自由を与えられておらねばならぬ。かくして根底は、その自由にまかせて分開と審判とを惹き起こし、その故に神の完全なる現勢化を惹き起こす。顕示の終極目的は、善より悪を追放し全き非実在として悪を開明することである。根底から揚げられた善は、根源的善と結合されて永遠の統一をなす。闇から光の中へ生み出されたものは、観念的原理に結びついてそれの肉体の諸々の肢体となる。この肉体においてかの原理が完全に実現されて、今や全く人格的な存在者となるのである。元初的二元性が持続していた間は、創造する言葉は根底のうちに支配していた。そして創造のこの期間はすべてを貫いて終極にまで至る。しかし二元性が分開によって滅せられる時は、言葉すなわち観念的原理、及びこれと一つになっていた実在的原理も、共々精神に従属する。そして精神は、神的意識として両原理のうちに同じように生きる。神は万物において万事一切中一切となり給わんがため、万物一切彼に服うときは子もまた自ら万物を己に服わせ給いし者に服うであろう。それは単に精神すなわち愛の息吹である。ここにおいて我々は遂に全研究の最高点に逢着する。窮極において再び一つに相合する。あらゆる対立に対して唯一存在者を、光と闇と善と悪との絶対的同一性をもち、あらゆる不都合な帰結をもつ。
