完全に開解放しされた枠は無敵！！俺の枠の精神統一点集中！！
意識の上では時空間を飛び出し超越している、そして現実にも時空間に充満し超越する筈だ、この考え方なら能力が多少欠けていても上げ高め埋められる。芸術が幾千年を通じて教えてきたところは、関心と悦びとをもって、あらゆる形態における生を見、ついに「どうあろうとも生はよいものである！」と叫ぶに至るまでに我々の心情を持ってゆく、ということである。現存在に悦びを感じ、人間の生を一片の自然のように眺め、法則に適った発展の対象として眺める、芸術の教えこそは今や真に力強い認識の要求として、内部から再び光明の下に出て来る。16歳と統合同一体化し16歳の能力も今枠になり今枠である。中心核に意識を置き中心核枠から全体全面まで俺を支配統制統括する。また感動に身も心も震える連続体験だ。胎内。やわらかい記憶に包まれる。今までがある。そしてこれからがある。俺の枠の生まれてから今まで枠の俺だ。あの時中学卒業式に登校拒否児達と一緒に出た後に禿正美に「森ー森ー、頑張れよー」と握手されたのも今の現実、卒業した後、道で杉崎麗や三木聡子に会ったのも今の現実、１５歳も１６歳も今枠なんだ。違った新しい空が見たい。新しいものは必ず美しく見える。倦んだ心に生気を与える。鈍った神経に微妙な刺激を与える。実在は現実そのままのもの、いわゆる物質の世界という如きものはこれから考えられたもの、夢みる如くかかる考えに耽った。経験するというのは事実其儘に知るの意、純粋経験は直接経験と同一である。自己の意識状態を直下に経験した時、知識とその対象とが全く合一している。これが経験の最醇なる者である。過去と感ずるのも現在の感情である。抽象的概念も一種の現在意識である。過去の意識の再現であっても、これが現在の意識中に統一せられ、これが一要素となって新なる意味を得る。意識の焦点が何時でも現在となる。純粋経験の範囲は自ら注意の範囲と一致してくる。主客未分の状態に注意を転じて行く。知覚の連続、動物の本能的動作、これらの精神現象においては、知覚が厳密なる統一と連絡とを保ち、意識が一より他に転ずるも、注意は始終物に向けられ、前の作用が自ら後者を惹起し、主客合一である。いわゆる瞬間知覚なる者も、その実は複雑なる経験の結合構成せられた者であるとすれば、二者の区別は程度の差である。純粋経験の直接にして純粋なる所以は、具体的意識の厳密なる統一にある。意識は、心理学者の単一なる精神的要素の結合よりは、元来一の体系を成したもの、初生児の意識の如きは混沌たる統一であろう。この中より多様なる種々の意識状態が分化発展し来る。直接なる具体的意識はいつでも根本的なる体系の形において現れる。意識の本来は体系的発展であって、この統一が厳密で、意識が自ら発展する間は、我々は純粋経験の立脚地に立つ。この点は知覚的経験においても表象的経験においても同一である。表象の体系が自ら発展する時は全体が直に純粋経験である。ゲーテが夢の中で直覚的に詩を作ったという如きは、その一例である。意識の体系というのは凡ての有機物のように、統一的或者が秩序的に分化発展し、その全体を実現する。意識においては、先ずその一端が現れると共に統一作用は傾向の感情としてこれに伴うている。統一作用が働いている間は全体が現実であり純粋経験である。而して意識は凡て衝動的であって、主意説のいうように、意志が意識の根本的形式であるといい得るならば、意識発展の形式は即ち広義において意志発展の形式であり、その統一的傾向とは意志の目的である。純粋経験とは意志の要求と実現、その最も自由にして活発なる状態である。純心理的に見れば意志は内面における意識の統覚作用である。統一作用の頂点が意志である。思惟も意志と同じく一種の統覚作用であるが、その統一は単に主観的である。然るに意志は主客の統一である。意味とか判断とかを生ずるのもつまり現在の意識を過去の意識に結合するより起る。即ちこれを大なる意識系統の中に統一する統一作用に基づく。意味とか判断とかいうのは現在意識と他との関係を示し意識系統の中における現在意識の位置を現す。いかなる意識があっても、そが厳密なる統一の状態にある間は、いつでも純粋経験である。単に事実である。統一が破れた時、他との関係に入った時、意味を生じ判断を生ずる。直接に現れ来る純粋経験に対し、過去の意識が働いて来て、これが現在意識の一部と結合し衝突し、ここに純粋経験の状態が分析せられ破壊される。凡ての意識は体系的発展である。瞬間的知識であっても種々の対立、変化を含蓄しているように、意味とか判断とかいう如き関係の意識の背後には、この関係を成立せしむる統一的意識がある。凡ての判断は複雑なる表象の分析によりて起り、判断が漸々に訓練せられ、その統一が厳密となった時には全く純粋経験の形となる。例えば技芸を習う場合に、始は意識的であった事もこれに熟するに従って無意識となる。純粋経験とその意味または判断とは意識の両面を現す者、同一物の見方の相違、意識は一面において統一性を有すると共に一方には分化発展の方面がある。意識は含蓄的に他と関係をもち、現在は何時でも大なる体系の一部と見る。いわゆる分化発展なる者は更に大なる統一の作用である。純粋経験は自己の範囲を超越する？純粋経験の立脚地より見れば、同一内容の意識は何処までも同一の意識、例えば思惟或は意志において一つの目的表象が連続的に働く時、これを一つの者と見るように、たといその統一作用が時間的には切れていても一つの者と考える。一つの統一から分裂、分化発展を繰り返しながら最終的大統一に至る。意識現象が唯一の実在であるという考より見れば、宇宙万象の根底には唯一の統一力あり、万物は同一の実在の発現したものといえる。知識が進歩するに従って益々この同一の理あることを確信する。意志は意識の根本的統一作用であって、直にまた実在の根本たる統一力の発現である。意志は己自らの為の活動である。意志活動の根底には先天的要求（意識の素因）なる者があって、意識の上には目的観念として現れ、これによりて意識の統一するにある。この統一が完成せられた時、即ち理想が実現せられた時満足の感情を生じ、その行為は善として賞賛せられる。善とは内面的要求即ち理想の実現換言すれば意志の発展完成である。根本的理想に基づく倫理学説を活動説という。宗教的要求は自己に対する要求である。自己の生命についての要求である。我々の自己がその相対的にして有限なることを覚知すると共に、絶対無限の力に合一してこれに由りて永遠の新生命を得んと欲するの要求である。肉的生命の凡てを十字架に釘付け了りて独り神に由りて生きんとするの情である。真正の宗教は自己の変換、生命の革新を求める。人間は自然の直中にあって常に子供そのままである。子供は恐らくいつか辛い心苦める夢を見る。眼を開ければ常にまた空想の中に居る自分を見る。認識する人々の幸福は、世界の美しさを増し、存在しているすべてのものを、いよいよ光輝あるものにする。
