書き込み入れた全部の字も内容も思い出し出され血肉となる。
疾病の変様メタモルフォーゼを規定する同じ諸法則は、また自然が種々の類を生ずるにあたって営む普遍的にして永続的な変化をも規定する。医学は普遍的自然論に完全に融合する。主観客観化の永遠の法則によって、全自然のうちの外的なものは内的なものの表現であり象徴であり、そして内的なものと同じように変化をなすのだから、創造的精神を迷路を通って追求する有機体の歴史記述的構成を導き得るものは、外的形態の形相である。有機的生産的自然の真の歴史の記念碑は、したがって植物から動物の頂点に至る生きた諸形態の可視の形相であり、それについての知識は、今まで一面的な意味において比較解剖学とよばれて来た。彼は一切の形態の象徴的なものを理解する。外的なものに内的な範型が表現されているように、特殊のうちにも普遍的形相が表現されていることを理解する。その形成の純粋な必然性を示す。彼の心の内に一切の有機組織の統一並びに内的親近の理念、及びその客観面のみは変化するが、その主観面は、唯一の原像に起源する理念、が絶えず持ち続けられることが望ましい。こういう理念を表示することを己の仕事と考え、変化の生起を規定する法則を得るように努める。原像それ自体は常に同一であるから、それを表現するものも形相の上から見て変化するのみであるということ、かくてあらゆる組織には同量の実在性が費やされているが、ただその用いられ方が異なっているということ、或る一つの形相が後退すれば、他の形相の出現によって補われ、後者の優勢が前者の抑制によって補われること、こういうことを彼は認識する。彼は理性と経験から一切の内的並びに外的な次元、生産的衝動がとり得る次元、の図式を描く。彼は構想力のために、内部で運動の最大の自由を持ち得る一切の有機組織の原型を獲る。有機的自然の歴史記述的構成は、それ自身において完成されるならば、普遍的自然学の実在的客観的な面を、自然における理念の完全な表現たらしめ、それによって理念そのものと真に合一させるであろう。宇宙の法則はあまねく透徹し、一切を支配するが故に、宇宙の内に包含されている一切は、必ず他のもののうちにその原像或は写像をもつのであり、実在的なものと観念的なものの一般的対立の形式は絶対であるが故に、無限と有限の究極の境、すなわち現象の諸対立が最も純粋な絶対性のうちへ消失するところ、においても同じ関係がその権利を主張して究極の勢位に帰るのである。この関係こそ哲学と芸術の関係である。両者はかくて最高峰において対面し、そして共通にもつ絶対性の故に、互に原像となり写像となる。哲学者においては、常に客観的なものが摂取されて主観的なものとなる。哲学は芸術と内面的に同一ではあるが、常にまた必然的に学問であり観念的であり、芸術は常に必然的に芸術であり実在的である。天才の脱し得る規則は単に機械的な悟性の命ずる規則である。天才は自律的である、それは他のものの立法から自由であるだけで己の立法には縛られている。最高の法則性であって始めて天才なのだから。また進んで一切の原理たる哲学は、まさにこの絶対的な立法を天才において認識する。それゆえ、いずれの時代にも、真の芸術家はその独特な姿において自然のように静寂、単純、偉大、そして必然であるのが見られたのである。芸術哲学は絶対的な世界を芸術の形式において表示する。理論のみがいきなり特殊なものや一つの目的に関係するのであって、それに則って事象は経験的に成就される。哲学は全然無制約である。哲学が芸術のうちに認識し表示すべき真理は、絶対美と同一なもの、すなわち理念の真理である。構成は一般に対立を廃棄する。学問的構成は対立がそこから流出して来た共通の統一を表示することに成立する。このことによって対立を超えて包括的な立場へ昇る。芸術を魔術的で象徴的な鏡のようにしてそのうちに内面的本質を映し見る哲学者にとって、芸術哲学はその必然的な目標である。彼にとっては芸術哲学は例えば自然哲学と同じように、学問それ自体として重要なのである。それは最も顕著な所産並びに現象の構成として、換言すれば、自然と同じく己のうちに完結し完成した世界の構成としてである。溌剌とした精神に富む自然研究者は、彼が自然においては混乱した姿で現れているのを見るのみである形相の真の原像を、芸術哲学を通して芸術作品のうちに認識し、また感性的な物がかの原像から生れ出る有様を、感性的な物を通して象徴的に認識することを学ぶ。理念は個々の存在の原像として永遠なる絶対的同一の本質、永遠なる認識作用、絶対者の自己認識作用、それによって絶対者の主客観化が行われる。
