枠でも永久抽象普遍の真理である中心についての理解認識能力はあるけれど（嘗ての過去の未来の自分自身なのだから）それが現実具体特殊な専門分野についての能力となると途端に激しく落ち込んでしまう、だから中心に居座り坐り据わり中心核枠から先端まで演繹的に理解認識する、道はこれだけだ。一個の男子が高く毅然として立っている。いかにして人間人間は自己を識りうるか。自己の殻を皮を脱ぎ捨てて掘り下げて行き、最も近道をして本質の坑内に下りて行くことは、苦しく危険な企てである。彼は、いかに容易に傷つくか。若き魂は次のように問い生を回想する。お前は何をこれまでに真に愛したか、何がお前の魂を惹きつけたか、お前の魂を何が支配し悦ばせたか。これらの貴重な様々な対象の一群を、お前の眼前に列べる。それらはお前に、その実体とそれらの作用とによって、一つの法則を、すなわちお前の本来の自我の根本法則を明らかにする。いかに一者が他者を補填し拡充し凌駕し光り輝かせているかを、それらが一つの階段梯子をなしているかを見よ。お前の真の本質はお前の上にお前が普通お前自身と見做しているところのものの上に測り知れないほど高くある。お前の真の教育者や形成者たちは、お前の本質の真の根源的意味と原素とをなすものを、お前に示してくれる。お前の教育者たちはお前の解放者だ。教養とは解放すること、植物の繊細な芽を手にかけようとするすべての雑草や塵芥や虫類を取り除き、光りと温かみとの流れ出て、夜の雨の心持ちよく降り注ぐ。教養は、自然が母のように慈悲深く心にかけてくれるときは、自然の模倣と崇拝とである。それが自然の恐ろしい無慈悲な病気を予防してくれ、自然を善きことの方に向けてくれるときには、そして自然の継母根性とその悲しい無知とのはしたない物言いの上にヴェールを被せてくれるときには、教養は自然の完成である。
