肝臓も治す治る。世界全体こそが俺の枠の頭脳精神肉体なのだ。
この俺は枠は完全に人を超え人間を越え大きく遥かに超越しているの、肉体でさえ超人なの。16歳も軌跡道程も全部の時期の自分も枠も今枠として顕現発現再現体現出現実現しさせさせる。ここ数年で、より夢想家に人間的にも厚みを増した。電話への充電は枠へのエネルギー補給だ。常に生まれ変わる創造と変革新の精神だ。あの追浜古本屋店員を抱く。若し天が色々な境地に自分を置いて苦しめる時には、我が神、心の本体を楽しませて、その環境を暢達にする。これが本当の自由自在である。思想や言論がどんなに混乱しておろうが、そうなればそうなったで、又そこに自由があり自然がある幸福がある、それが本当の学問修行であります。真性を徹見し、真実の世界を開顕す。理行二入、思索と実践から真実の人間を理解し把握してゆく。達磨の教理として伝える。宗には三つの意味がある。第一は、あらゆる物事の依って生ずる始元という意味。第二は、よって立つ所の所謂依、つまり基礎・根本という事。第三は、あらゆる部分的なものを包容し統一する全体性、永遠性。この三つを持っているからこそ宗であります。大なるものが大宗、微妙なるものを宗旨という。その宗を明らかにして、一切含生、生きとし生けるもののすべてに共通し存在する真性を把握して、迷妄を捨て造化と一体になって生きる、これが理入であります。それがそのまま行入である。理行相融にして真実の自我を徹見し真実の人生を行ずる。思索と実践によって生活を陶冶し練り詰めてゆく。永遠なる無限なる全きもの、超感覚的超意識的である。天命を知って道の修業をする。孔孟の教は現実的である。老荘の教は理想主義的である。現実から解放され、現実生活から救われる。思想、感覚が非常に霊的になる。超現実的な直覚、正しい意味に於ける形而上学、こういう叡智が特に輝いている。無名は天地の始にして、有名は万物の母なり。同出にして異名なり。之を玄と謂う。玄の又玄、衆妙の門なり。人間が言語や概念や文字等に表現したものは既に限定されたものであります。道とは宇宙万物が存在し、活動、変化、造化する所以のもの、生々として無限に変化極まりないものが道であります。有とは限定であり固定であって、無こそ永遠であり全体である。無から有を生ずと申しますが、本当に有というものは無から出て来るのであります。無は、言い換えれば全、完しであります。そこから有限・現実の世界に現れて来ると、それはもう限定・固定されてしまう。無限に根ざした有限は玄妙である。故に常無以て其の妙を観んことを欲し、常有を以て其の徼（微？）を観んことを欲す。どっしりと無限に腰を据えておくと、そこから色んなものが分化・活動し、実にそれは微妙である。最も無限にして超感覚的なものが最も変化極まりない現実的なものである。衆妙は多くの限りなき微妙なものの出来るところであります。現実の人間的存在が無限に根ざしておれば、それと一体になっておれば微妙であります。この無限から遊離して浮き上がってしまった有限、本当の限定・固定、現実というものは、どこまでも理想と言えば語弊があるが、その由って来たる有限と無限と一体になっておれば玄妙であります。老子や黄老派は徳の事を玄徳と言う。徳とは万物を包容し育成する無限の力であります。人間の知識とか才能とかいうものは徳の微なるものであって、その能力の極めて末梢的なものであります。徳育から枝葉を伸ばし幹を太らせ実を育てるように、色々の知識・技術を教える。私を去ることによってこそ真に私を成す。天は長く地は久し。天地の能く長く且久しき所以の者は、其の自ら生ぜざるを以ての故に能く長生す。読む以上は、その書物と自分とがぴったりと一つになる。「古教心を照らし、心古教を照らす」心と書物が一つになって深い読書と言える。「気を専にして柔を致め、能く嬰児ならん乎」精神を統一して柔の極致、致柔、嬰児は無心であります。天は無為自然にして万物を創造する。老子は常に現象よりも一歩本体に入って、作為や意識の世界よりももう一つ奥の世界に入って、そこから造化の働きを見よう、或いはその働きに参じようとする。物の中へ飛び込んで、そして物と一つになって共に動いてゆく。書物を読む。書物と一つになる。書物が自分を読む。人生、文字を知るは憂患のはじめなり。人間色々な知識や理論など持つようになると又煩悶が多くなる。それを突き詰めて超脱する。意識を全宇宙規模にまで拡大する。今日一、今日見た中では、今迄見た中でも一番だな。内部生命が外に発動した様だ。現実の歴史の進行過程は挑戦と応戦、闘争過程で進行してゆく。その間に栄枯盛衰興亡の悲喜劇を演出してゆく。それは人間の所為、それに対して自然は大きな調和で創造変化・造化してゆく。人を知る者は智、自ら知る者は明。人に勝つ者は力あり、自ら勝つ者は強。足るを知る者は富み、強めて行ふ者は志あり。道之を生じ、徳之を畜ひ、物之を形し、勢之を成す。星を以て万物、道を尊ぶ。常に自ら然り。故に道之を生じ、徳之を畜ひ長じ育て成し熟し覆ふ。知の最先端をいく政治を深く学び、最新の知識や文物を知る。理想と力の双方が揃っての政治、現在に到るまで真実であり続ける政治の真髄を悟った。古来の神々こそが幹であり、新しい仏は枝であると、聖徳太子は語った。生きとし生けるもの、すべてが共生することで、あらゆる生命は循環し成長発展し続けている。徳とは宇宙生命より得たるもの、すべてを含んで徳と言う、その得た本質的なるものを特に徳と言う。徳の発生する本源、己を包容し超越している大生命を道と言う。要するに道とは、これによって宇宙・人生が存在し活動している所以のもの、その本質的なものが道、それが人間に発して徳となる。これを結んで道徳と言う。その中に宗教も道徳も政治も皆含まっている。非常に内包の広い外延の広い言葉である。人生を創造してゆける能力を創建智、もっと発達させると、現実を解脱して新しいものを創造してゆく解脱智、或いはそんな知慧が尊いというので聖智と言う。この宇宙・人生は日々夜々創造変化、日々に新たなりというのが自然の相、停滞固定は造化に反する。常に自己を新しくしてゆく。命を知る、人生を自己の本質本領を知り、造化の法則である道に完全に自己を合致せしめる。即ち真の自由を得る。自己を新たにする根本的な自己改造、本当の自分になる。静とは純一であること、よく統一され練成され熟練されておるということ、人間も出来てくる程静かに落ち着いてくる。精神作用が純一になって定まる安定する。安定して初めて全能力が発揮される。精神活動が自由に行われる。即ちよく慮る。存在する物には本末がある。物は存在を言い、その活動機能を事という。すべて事には終始がある。終りは始めの終りであって、同時に次の始めであります。終始というものは循環する。兎に角一応本末があって終始がある。時間的には先後がある。以上は発展過程です。尚古思想は理想精神の発露である。
