負けをマイナスを無駄に使ってしまった分を取り戻さなきゃならん、取り戻す！！理念は個々の存在の原像として個々の存在における永遠なる絶対的同一の本質である。理念の理念は即ち絶対的同一そのものであり、諸々の理念はそのまま一理念である。永遠なる認識作用、絶対者の自己認識作用、絶対者の主客観化が行なわれる。全存在は歴史となるはずであった、それを地球の内的自然史と名づけた。特殊と普遍とが絶対に一であり、必然的な一切のものが同時に自由であり、自由に生起する一切のものが同時に必然である時、国家の理念は達せられる。自然法は人間性のあらゆる可能な衝動、全心理、考え得るあらゆる定式を順次に遍歴して来たのである。宇宙の内に、理念が実在的に生産される面と観念的に生産される面がある。いずれも絶対的生産の同一の働きによって、かつ同じ法則に従って生じ、宇宙のうちには完全な単一性があるのみである。自然を理念の普遍的所産として捉えるためには、理念の始源と意味とに帰って行かねばならぬ。理念の始源は、己自身客観たらねばならぬという絶対性の永遠の法則のうちにある。この法則によって、神の生産とは、普遍性と本質性とを特殊な諸形相のうちに造り入れることであり、だからこそ特殊な諸形相は特殊でありながら、同時にそれぞれ宇宙であり、哲学者によって単子モナドとか或は形相イデーとか呼ばれて来たものなのだから。理念が特殊なものを神のうちにあらしめる唯一の媒介者であり、この法則によって特殊なものと同じだけの宇宙が存在しながら、しかも本質の相当性の故に、一切のうちに一宇宙があるのみだ、ということは、哲学において更に詳細に教えられる。神のうちなる理念は、純粋に絶対的に観念的であるにせよ、生命をもち、神の自己直観の先ず第一の体制であり、神の本質に属する一切の性質を分有し、また特殊な形相においても絶対的な実在性を分有する。このような分有によって、理念は神と等しく生産的であり、同じ法則に従い、また同じようにその本質性を特殊のうちへ形成し入れて、個々の特殊なものを通して認識できるようにしながら、己自身において、己自身にとって、無時間的であるが、しかし個々のもののの立場から、個々のものにとっては時間的に働く。理念は物の心であり、物は理念の身体である。その点で必然的に理念は無限であり物は有限である。無限なるものは内的本質的相等性によって有限なるものと一となることができる。有限者が、無限者のすべてを己のうちに形成し入れられたものとして所有すること、それだけで全理念である最も完全な有機体の如くであるならば、物の本質は心として、また理念として、それに加わり来り、実在性は再び観念性に融合する。このことは理性のうちで行なわれる。だから理性は自然の中心であり、理念の客観化の中心である。かくして絶対者が永遠なる認識作用において己自身を理念のうちに客観化するように、理念は永遠なる仕方で自然のうちに働く。自然は、感性的には、即ち個々の物の立場から見れば、個々の物を時間的な仕方で生産する。そして自然は理念の神聖な種子を受取っているのであるから、無際限に生産的なるものとして現象する。
