「この無限の空間の永遠の沈黙は私を戦慄させる」孤独には美的な誘惑と味いがある。カルシウムのお菓子を食べ過ぎたより、あの追浜古本屋店員を抱けなかった事が、これから抱くとしても、人生最大の失敗だったかも・・古本屋を追い出されて神奈川新聞の勧誘なんてやらされてたかも・・何が何でも何としても救って助けて抱いてやらにゃ・・強い意欲を持って学習し続ける。個性は多様の統一であるが、相矛盾する多用なものを統一して一つの形に形成するものが構成力であり、感性より知性より個性は構想力から考えられ、生と同じく幸福が想像であるということは、個性が幸福であることを意味している。自然はその発展の段階を昇るに従って益々多くの個性に分化する。そのことは闇から光を求めて創造する自然の根源的な欲求が如何なるものであるかを語っている。人格は地の子らの最高の幸福である。幸福になるということは人格になるということである。幸福は肉体的快楽にあるか精神的快楽にあるか、活動にあるか存在にあるかというが如き問は、我々をただ紛糾に引き入れるだけである。人格はいずれでもあり、肉体であると共に精神であり、活動であると共に存在であるから。彼の人格が形成される。彼の幸福は彼の生命と同じように彼自身と一つのものである。この幸福をもって彼はあらゆる困難と闘うのである。青春の懐疑は感傷に伴われ感傷に変わってゆく。精神の習慣性を破るものが懐疑である。精神が習慣的になるということは精神の内に自然が流れ込んでいることを意味している。懐疑は精神のオートマティズムを破るものとして既に自然に対する知性の勝利を現している。不確実なものが根源であり確実なものは目的である。すべて確実なものは形成されたものであり結果であって端初としての原理は不確実なものである。懐疑は根源への関係附けであり、独断は目的への関係附けである。理論家が懐疑的であるのに対して実践家は独断的であり、動機論者が懐疑家であるのに対して結果論者は独断家である。独断も懐疑も共に方法であることを理解する。肯定が否定においてあるように物質が精神においてあるように独断は懐疑においてある。すべての懐疑にも人生は確実なものである。何故なら人生は形成作用である故に、単に有る存在より作られるものである故に。個々の行為が偶然的であるから習慣も出来るのであって、習慣は多数の偶然的な行為の統計的な規則性である。習慣もそれ自身一つの模倣である。それは内部の旧いものの模倣である。習慣において自己は自己を模倣する。非連続的なものが同時に連続的であり連続的なものが同時に非連続的であるところに習慣は生ずる。つまり習慣は生命の法則を現している。習慣は自己による自己の模倣として自己の自己に対する適応であると同時に、自己の環境に対する適応である。如何なる形もつねに超越的な意味を持っている。形を作るという生命に本質的な作用は生命に内在する超越的傾向を示している。自然的な情念の爆発は習慣を破るものである。名誉心とはあらゆる意味における戦士の心、騎士道や武士道において名誉心が根本的な徳である。永遠とは抽象的なもの、抽象的なものに対する情熱によって真の個人という最も現実的なものの意識が成立する。これが人間の存在の秘密である。怒と焦燥が混淆している。肉慾的な愛も永続する場合次第に浄化されて一層高次の愛に高まって行くことが出来る。そこに愛というものの神秘がある。愛の道は上昇の道であり、ヒューマニズムの観念と一致し易く、すべてのヒューマニズムの根柢にはエロティシズムがあるといえる。怒の根源の深さ、神の怒の神秘を感じる。愛は統一であり融合であり連続である。怒は分離であり独立であり非連続である。神でさえ自己が独立の人格であることを怒によって示さねばならなかった。自己を集中しようとすればするほど自己が何かの上に浮いているように感じる。虚無の上に浮いて居る。世界をいくつかの言葉で表されたものは更に無数の要素に分解することができる。人間の身体も精神も、それらの要素と同じ秩序のものに限りなく分解することが可能である。一つの細胞にとって他のすべての細胞は条件であり、一つの心象にとって他のすべての心象は条件である。自己が世界の要素と同じ要素に分解されてしまうのを見る。世界は要素に分解され人間もこの要素的世界の内へ分解され、そして要素と要素の間には関係が認められ、要素も関係に分解されてしまう。形成は常に虚無からの形成である。古代は実体概念によって思考し、近代は関係概念或いは機能概念函数概念によって思考した。新しい思考は形の思考であり、関係概念と実体概念とが一つであり、実体概念と機能概念とが一つであるところに形が考えられる。現代の混乱といわれるものにおいて、あらゆるものが混合しつつある。対立するものが綜合されるよりも混合されてゆく。この混合から新しい形が出てくる。混合は不定なものの結合であり、その不定なものの不定性の根拠は虚無の存在である。あらゆるものは虚無においてあり、且つそれぞれ特殊的に虚無を抱いているところから混合が考えられ、虚無は一般的な存在だけでなく特殊的な存在を有する。カオスからコスモスへの生成を説いた古代人の哲学には深い真理が含まれている。天真爛漫に現れる情念は常に或る美しさをもっている。思索は下から昇って行くものであるとすれば、瞑想は上から降りて来るものである。それは或る天与の性質を持っている。性癖となった瞑想は夢想か空想である。瞑想は思想的人間のいわば原罪である。先ず自己の個性を発見すること、その個性に忠実であること、そしてその個性を形成してゆくことである。人は愛と憎みとに心が分裂するという。感傷になると愛も憎みも一つに解け合う。運動は矛盾から生ずるという意味においても、感傷は動くより流れ漂うものである。すべての趣味と同じように、感傷は甘味で誘惑的、本質的にはただ過去にのみ働き、出来つつあるものより出来上がったものに対して働く。すべて過ぎ去ったものは感傷的に美しい。感傷的な人間は回顧することを好む。真理は出来上がって、そのあらゆる完全性において天から来る。人生において証明するということは形成することであり、形成することは内部と外部とが一つになることである。旅も解放も脱出も漂泊である。万の心を持つ人、内部に鬩ぎ相反対し矛盾する多くの心を見い出し愛し助け憎み合い相結合した。強くて頭の良い体の大きな背の高い若い男に包み込まれる・・嘗ての美貌の筈も、顔も何か不自然に長く凸凹になって来たし、髭が濃くなって来たし、心配だ・・顔も身体も若く美しくなること！！また意識の旅が旅行が出来るトリップできる。根本的な変質を余儀なくされた。彼も立派な男になった。恥ずかしい思い出には足元が崩れていくように存在して居ること自体居た堪れない、ムカつく思い出には腹立たしい。頭蓋骨は頭の殻、濁りは心の殻、鎖骨は体の殻、殻ごと全部取り外す外れる。本当に昔が今に返せるなら過去が今に来るなら過去の枠が今の枠に来るなら、また素晴らしく物凄く優れることも可能だろう。何がどういう以前に道は唯一本だけだ。無意識な必然的な展望の推移だ。それでも「女を抱けるのなら」まだ多少どうにかは・・あまりに人当たりに繊細で感
