すべての本に世界がある。すべての世界に言葉がある。
ありとあらゆる自然物を追い求めては問い掛け、すべてに注目し、珍しいものはどれも蒐集して、何か新しい現象なり新しい力や知識なりを会得して我がものとした時にはこれを喜ぶ。そんな姿には未来の哲学者が認められる。くそ、どうしてもこのケンタッキー・フライド・チキンの女子店員に変な紙を見られた光景と和田とやり捲っている光景が眼前に浮かんで来る・・果たして現実か。後悔すべき汚く恥ずかしい過去の現実を書き換えたい。幾千種類の自然物のあいだでは、無数の会話が続けられていた。自然物に潜む内的な力が相互に作用し合っていたのである。物たちは、自分たちが自由だった昔の状態に何とかして戻ろうともがいていた。自分本来の場に立って、周囲の雑多な騒動を落ち着いて眺めている者も少しはいたが、残りは、言語に絶する苦悩と苦痛に呻吟しつつ、自然の懐に抱かれていた在りし日の輝かしい生を惜しんで嘆いていた。あの頃は物たちも、共同の自由によって一つに結ばれ、各々が必要なものはたくまずして手に入れていたのである。彼我が共に一つの全体をなす。自然の内なる音楽を理解し外なる調和を感じ取る。人間ときたら、暴君のように我々を切り離し、やたら引っ掻き回しては調和を乱すばかりだ。あの昔日の黄金時代のように、我々と親しく交わり、我々の大いなる盟約に加わるなら、どんなにか人間も幸福になれるだろうに。あの頃は、人間は我々を理解し、我々も人間を理解していた。神にならんとする人間の野望が、人間を我々から引き離してしまった。人間は我々の中に無尽蔵の快楽と終わりなき享楽を予感しする。待望久しい昔日の時代も帰ってこよう。感情の元素とは内的な光なのだが、その内的な光は屈折して、より美しく強烈な色彩となる。そうなれば、人間の心の内に星が輝き出て、いま自分の目が見ている境界や地平を越えて、もっとありありと多彩に全き世界を感じることができる。人間は終わりのない遊戯の達人となり、自らを肥やしつつ絶えず増大していく永遠の享楽に浸る。変幻自在の流体が不思議に凝集したり形をなしたりする。そうした知覚は、印象をしっかり刻みつけた一点から勢いよく四方に広がっていき、彼の自我をも引き連れていく。この新たな知覚は、かの自我があのしなやかな媒質の中で四方に拡散する光線とその作用、あるいはその媒質の中での自我の屈折、そもそもこの媒質の海に立つ波と堅固な注意力との不思議な戯れ、人間がこの遊戯において初めて自己の特質、自己に固有の自由というものを真に自覚し、深い眠りから覚めたかのように、今初めて世界が我が家となったかのように思う、そしてこの時初めて、昼の光が彼の内なる世界の上にあまねく広がったかのように感じる。通常通り五感を働かせ、感じることと考えることが同時にできるようになったならば、最高度まで到達したと思う。これによって二つながらの知覚は強まる。外界は透明になり、内界は多様で意味深いものとなる。外界と内界の中間のいとも溌剌たる状態に身を置き、この上なく完全な自由とこの上なく喜ばしい力の充溢を感じる。この状態を永遠のものとし、これを自分が受ける印象のすべてに行き渡らせようと努め、内外二つの相互関連を追究し、その法則や相互の共感や反発の様を探る。我々に触れてくるものの総体を自然と呼ぶ。そうすると自然は、我々が感官と呼ぶところの我々の身体の部分と直接の関係をもっていることになる。我々の身体の未知にして神秘なありようは、自然の未知にして神秘なありようを推測させる。だとすれば自然とは、我々が自分の身体を通じて導き入れられるあの不思議な共同体ということになり、我々は自分の身体の仕組みや能力に照らしてこの共同体を知ることができる。問われるべきは、諸々の自然の本性を、身体という特殊な自然を通して我々が本当に把握しうるようになるのかどうか、我々の思考や注意力の強度は、どの程度までこの特殊な自然によって規定されるのか、あるいは逆にこちらが規定するのか、事物の本性に迫りたいと望むならば、あらゆる事物に先立ってまず、我々の身体の内的状態や仕組みを究明することだ。様々な思考訓練、考えられる限りのあらゆる思考運動を導出し、この思考運動に習熟すると共に、次々と思考運動を展開して、それらを種々様々に結合したり解体したりする敏活さを体得する。思考のメカニズムを会得し、何度もそれを繰り返しながら、どの印象にも必ず結び付いている思考運動を他のものと区別し保持しておくことを学んでいく。およそ神的なものは一つの歴史をもち、自然、すなわち人間が自分と比較対象する唯一の全体者が歴史過程の中にあり精神を持つ。自然は、詩人に対して一なる無限の心情が示すあらゆる変化の姿を見せ、どんな才気煥発で表現豊かな人間にもまして自然は、含蓄に富んだ表現や思いつき、様々に遭遇しては離反する姿、壮大な着想や綺想でもって、詩人たちを驚かせる。自然の想像力の汲めどもつきぬ豊かさ、万物に美しい装いをさせ生命を吹き込み、個々の偶然の重なりや連続に、人間の心と見事に共感するものが見える。精神と魂の能力の総体、世界霊、人間と世界もしくは自然の奧処にあって統一している根本原理も世界の心情と呼ばれる。貴方は広大な世界の心情を深く覗かんとする、気高い衝動を我が内に呼び覚ました。顔つきや身振りや脈拍や顔色がその人を示すように、全自然は我々が人間と名付けている驚嘆すべき高次の存在の一つ一つのありようを表す。自然を把握するには、我々の内面に、きちんと順序立てて自然を生成させる。自然の全体は、理性的存在者の了解のための道具か媒介物として捉えられる。思考する人間は、人間の現存在の根本的機能であるあの創造的観察へ、創ることと知ることとが最も見事に結びついていたあの地点へ、そう、本来の享受としての内的な自己懐胎たるあの創造的瞬間へと、立ち戻っていく。彼が原現象の観照にすっかり没入すると、新たに生じてくる時空の中で、自然の発生史が、壮大きわまりない演劇のように眼前に繰り広げられていく。その果てしない液体の中に沈殿してできる凝固点はどれも、この思索家にとっては、愛の守護霊の新たな啓示、「汝」と「我」との新たな紐帯となる。こうして内的に展開する世界史を丹念に記述していくことが真の自然論となる。思索家の思考世界の内的脈絡を通じ、またその思考世界と宇宙との調和によって、ある思考体系が自ずから形成され、宇宙の忠実な写し絵、雛型となる。自然における大いなる同時性、自然はそこら中に全き姿で現れ出ている。一本の蝋燭の炎のなかにもありとあらゆる自然の力が働いているが、そのように自然は至る所で不断に自己を示現しては変容し、葉も花も実も同時につけさせ、時間のただなかにあって現在であると同時に過去でもあり未来でもある。影響力は、まず我々の精神に刻まれ、次に我々の精神から出て、宇宙の精神をこの自然の上に注ぎかけ、そしてこの自然の精神を別の自然体系へと分かち与えていく。
