そのもの全体全面まで俺の中心核枠！！
16歳、1995年の二月が絶頂、三月四月で転がり落ち、それでもまだ優れた人間だったけど、薬飲まされてからは廃人同然にされていく・・その年の６月７月８月には滅茶苦茶に壊され口開いたままで知的障害者同然ですよ、あーあ。普遍的な事柄へ向かう認識だけが、意志から解放された認識に留まりうるのであって、個別的な物事は、これに反して、意欲の対象であるからである。普遍的な事柄へ向かう精神的傾向は、哲学と詩において、一般に芸術と学問において、真価のある仕事を成し遂げるために必須の条件である。意志に奉仕する知性にとって、すなわち実際的に使用される知性にとっては、存在するものはただ個々の事物のみである。芸術と学問に携わる知性にとって、すなわち独立に活動している知性にとっては、存在するものは、すべて種とか属とか類とかのような普遍的存在のみであり、事物のイデア（理念）のみである。造形的な芸術家さえも、個体の中に理念を、すなわち類を表現しようとしているのである。意志というものは、直接には本来の対象である個別的な事物のみを目指している。天才は個体的なものを看過し閑却する。実際生活においては、個別的なものをそれと意識して嫌でもそれに携わらなくてはならないが、かような仕事は、天才にとっては煩わしい強制労働である。詩人は人生の絵図を、様々な人間の性格や境遇を、人の想像力に描いてみせ、それらすべてを活動させ、更にその後は、各人がそれぞれの精神的資質の及びうる範囲内で、これらの絵図に触れて考えを運ぶのに委せる。哲学者はそこから引き出してきた整頓された思想をもたらし、その上で、彼の読者が彼と同じように、彼と同じところまで考えを進めることを要求する。詩人の作品は、すべて相並んで共存しうるばかりか、それらのうちで最も異質的な作品でさえ、同一の精神によって等しく享受され鑑賞されることができるのに、これに対して哲学者の体系は、それぞれ生まれ出るやいなや、あたかも即位式当日のアジアのスルタンのように、早くもそのすべての兄弟たちの没落を狙っている。蜂の巣の中に唯一匹の女王蜂のように、日程に上る哲学は一つあるのみである。哲学体系は主として戦闘的な性質を持ち、それらが万人の万人に対する戦いを現じているために、哲学者として勢力を得ることは、詩人として勢力を得ることよりも、無限に困難なことである。時には国家でさえも、自分に好ましい哲学体系の保護者となり、その強力な物質的手段によって他のあらゆる体系を防圧する。長遠な時代とあらゆる国民から、国籍の差別なしに選び抜かれた精華たる思想家たちの賞賛こそ、哲学者に与えられる報いである。哲学の歩みが全人類の歩みに及ぼすゆっくりとした、しかし深い感化のゆえに、哲学者たちの歴史は幾千年以来、列王の歴史として並び進み、そして後者の百分の一ほどのわずかな名を数えている。その中で我が名のために不朽の位置をかちうるというのは、やはり偉大なことなのである。哲学上の著作者は案内人であり、その読者は旅行者である。様々な物事について我々自身が行う真剣な瞑想や心のこもった省察、生きている有機体、すべてが渾然無縫の一体をなし、従ってすべてがくまなく明晰判明になり、真の連関を、統一をさえ獲得することができる。人が全面的に理解し尽くすのはただ自分自身だけである。事物そのものを自分で考察してこそ、洞察も知識も本当に豊かになりうる。芸術と詩の泉が世界の直観的に把握の中にあるように、哲学も直観的把握から湧き出る。偉大なる思想は心情から来る。頭はどこまでも高く上げ、そのために心情と頭脳を兼ね具える全き人間が躍動し底の底まで感動させられる。全体として見渡すならば、あらゆる時代の哲学は時計の振子のように、合理主義と照明主義の間を、すなわち客観的認識源泉の使用と主観的認識源泉の使用との間を、行きつ戻りつ揺れ動いているというように見立てることができる。事物の客観的直観的な把握から発して首尾一貫して展開された世界観、たとえば完全な唯物論、絶対的な観念論、それらはみな同時に相対的な真理である。かような世界観の一つ一つは、あたかも一つの絵が風景を唯一つの観点から描写しているように、それぞれただある特定の立場からみて真理である。かような一体系の立場を越え出てみるならば、その真理の相対性が、すなわちその一面性が認識される。すべてを見渡し一切を計算に入れる最高の立場のみが絶対的な真理を手渡すことができる。嘗て存在したもの、いつか存在するであろうもの、その一切が私である、真理である。首尾一貫して展開されうる世界観は、自然の直観的客観的な把握を概念の中へ引き移してきて、それによって固定したもの。汝が父祖より嗣ぎ来りし宝を、働き取りて、その主となれ。我々の先人思想家達が既に見出していたことを、その事情を知るよりも先に自分自身の力で自ら発見することは大きな価値と効用がある。自分で得た思想を、他人から習得した思想よりも、遥かに深く理解するものであり、そして後になってそれをあの先人達のもとで見出すときには、期せずしてその真理性の有力な証拠を、広く認められている他人の権威によって得るのである。我々はこのことによって、それ以後いかなる異論に対してもそれを擁護する自信と恒心とをかちうることになる。世界を目的として受け取るということは「世界の現実存在はその本質によって正当づけられとおり、従って世界の存在はその非存在よりも決定的に優れている」ということを意味する。我々の知性にとって自然な前提でも、それをあのように事物の全体へ、すなわち世界を適用することは一種の超越的適用であるという結論が出て来る。外へ眼を向けると、広大無辺な世界と数限りない物象が現れてくる。16歳も軌跡道程も中心核つまり過去の自分だろう、そのもの全体全面まで俺が未来の自分、過去の自分から広がる未来の自分と一つになるんだ。過去から広がる未来に一つになるのだ。16歳以外でも多少マシだった時期は点々とはあるのだ、そういった時期も全部取り込み16歳に沈み注ぎ込み一点集中し軌跡道程も枠に若返り、中心に居坐り坐り位置し中心核枠として存在する。軌跡道程も枠になってこそ地獄のような日々も贖える。大検の勉強してた頃は凄まじい集中力で、三ヶ月で参考書１０冊くらい覚えられたけど、それでもまだあの頃は優れる前段階・・函館行った頃はまだ優れる少し前だったなー、カルシウムのお菓子ビタミンサラダカルシウムを一日十箱以上買って来て、お願いします！お願いします！！それから一気に加速度的に優れていく・・焼き肉屋に家族で何度も行ってた頃は滅茶苦茶優れてたな・・まだ最高の状態に至る少し前、父親が「佐保子ブスだから外出せなーい」はーっはっはっはっ！！母親が「うそよー、うーそ」あの頃は笑えました。自分の娘をブスだから外出せないとは？「佐保子ー、風呂やってくれー、やりゃーいいでしょ、お前らもう一度言ってみろー」はーっはっはっは、笑える男だ。あの16歳で雨戸締め切って一人大笑いしていた頃も今の現実・・それから僅かの期間で宇宙最高になり頂上点に達し、一気にぶっ壊れ転がり落ち始める・・あーあ、あの泣き叫んでた頃より今の方が全然苦しいよ。あの頃はまだ
