その全てを己に取り込み血肉とする。縦横無尽に動き回る。鎖骨問題から解放されれば復鼻高く美貌になることだって、頭蓋骨から解放されれば復頭良く宇宙最高になることだって・・心の内にあるもの全部を外に吐き出し吐露して自体中心核である。観念が思惟の世界における関係はその対象が実在の世界における関係と同じである。確固・永遠なる事物、無限様態、法則、普遍的な所産的自然、神に直接依存し、あらゆる永遠からこの方存在しあらゆる永遠にわたって不変であり、すべての個物はこれによって生ぜられ、個々物の原因である。精神と全自然との合一性を認識するとは神を識り且つ愛するというのと同一意義である。或る観念がそれ自体で見て真の観念のあらゆる内的特徴を有する場合その観念は妥当な観念と言われる。明瞭判明な観念というのとほぼ同じである。知性が絶対的に形成する観念は無限性を表現する。点の運動から線が、線の運動から平面が、平面の運動から立体が生ずると知覚する。知性は事物を持続のもとによりも或る永遠の相のもとに及び無限数のもとに知覚する。観念は、その表現する対象の完全性が大であればあるだけ完全である。個物の認識は確固・永遠なる事物から得られる。確固・永遠なる事物を知るためにはまず我々の知性の本性と能力とを吟味する。それには知性の定義を識る。これには知性の本性と能力との認識を要する。循環論から逃れるため、まず物の本質を知って後その諸特性を推知してゆくという順序から、物の諸特性からその本質を帰結するという逆コースを辿る。知性の定義ないし本質を知り、更にそれを拠点として永遠無限なる事物の認識に至り、永遠無限なる事物から変化する個物の認識に到達し得る？感覚と経験との援用？神の観念から一切を知性の示すがままに演繹的に導き出してゆく。
