その存在の枠を超えて己の意思に専横を許すこと、己の意思を神の意思の座に置くこと、成功がすべてを正当化する。霊の外なる分裂と敵意の世界と、霊の内なる合一と愛の世界との永遠の矛盾対立の問題を解決し、イエスがナタナエルに向かって感動をこめて「これより汝らは天開けて、神の使いらが人の子の上に昇り降りするのを見ん」と言ったように、人々をただ一つの神の国に統合するであろう。神が未来において我々の為に何を準備していようとも、それは偉大なもの、祝福に満ちたもの、我々が既にこの世で知っている神の御業のような性質のものである筈である。我々の未来は、我々がこの世で想像しうるかぎりの至上至高のものに呼応する性質のものであるにちがいない。その全存在をもって善を神を愛する。不老不死を確信している。内なる神的本源の解放の度が増大するにつれて、必然的に現体制の改変と新体制の樹立が行われることになる。自分の内なる光を増大せしめ、その照らし出すものに注意を向ける。自己の内部に沈潜し超人的なものを意識する。神を探し求める君は神の中にあり神は君の中にある。すべてのものが静かに神を語っているこの偉大な万物合一の世界。知力とは、生活してゆく上の世俗的条件を理解し推察する能力であるが、理性とは、我々の霊に己の世界および神との関係を自ら啓示する能力である。無限の世界における我々の行為の結果は無限である。我々の行為そのものは我々に属するけれど、行為の結果は早や天に属する。人間の行為の内で、その結果がずっと先に現れるものほど、より尊く価値が高く偉大な行為である。ひたすら神の御旨の遵奉のためになされた行為こそ、人間のなしうる最善の行為である。きわめて些細なことが人間の性格形成のために作用する。キリスト教は非常に簡単な教え、人間に対する愛の教え、神に対する愛の教えである。天に在す汝らの父のごとく純全なれ、神の中に生きよ。最善の事柄を最善の方法で最善の目的のためになせ。キリスト教的愛は、自分および万人のなかの万物のなかの神的本源の同一性の意識から生ずる。眼前に神の叡智の無限の世界が展開する。我々の心の中の太陽にも必ず黒点がある。それは我々の個我が落とす影である。完全性への衝動を感じ、たとえ傲慢心や好奇心や憎悪心や流行かぶれの結果、完全性への懐疑や否定にすっかり陥ったとしても、いつかは必ずまた希望へと回帰する。人間の完全性への精進には、ときに翳りは生じても、月にかかる雲のように、彼の心を哲学の霧がよぎることはあっても、忽ち雲間を出て元のままの煌々たる姿を現す。霊が我々人間にその力を強く振るう時代、全世界が呼吸する空気の中に充満している。徐々に探し合い求め合い接近し団結し一つの集団すなわち重心を形成し、その重心に向かって世界の隅々から霊が飛んで来る。来たるべき統一と正しき前進実現の為に大同団結する。自分を知ることは神を知ることである。自分の肉体を浄めよ、しからば汝は神を見る。汝の肉体を神の営となせ、邪念を棄て、心眼をもって神を眺めよ。我々が神を知るとき同時に我々自身をも知る。八百万の神々よりも世界に唯一つの偉大なる神、暁の明星のように万人の心の中にある灯、この常住の灯こそ我等の精神的故郷なのである。己の自我を、隷属的で不安定で哀れな世界から、自由で不動で歓喜に満ちた世界へ、己の精神的本体に目覚める世界へ移行させる。神に対する愛とは、自己の存在に最高の創造力を導入するための精進努力、絶えず自己反省する。天はすべてを知っている、すべてを見すべての中に入り存在している。天は万人の心を透視する。肉体を離れて自らをその一部と感ずるところのもの、神と融合流する。「何ごとにおいても、これこそ御旨だと知ったとき、自分は自分の意思を棄てて、神の欲したまうことのみを行う」と本当に心の底から君が言うとき、君ははじめて完全に自由になる。自分の生を肉体的存在から精神的存在へ移行せしめる度合に正比例して己の自由を感ずる。
