中心核枠に16歳丹田からの無限の力の充溢と充実、俺は存在だ。
中心核枠の磁場で全体全面を包み込む。枠は中心核に居る有る存在する。枠は中心核で禅に瞑想に耽っている。生活の地平を拡大し、生活の多様性をそれぞれ事細かな点に至るまで見極め、正しく判断する。そのとき人間の個性は、極度に密度を増しながら、無限に自己を拡大して行く。禅の道を歩む者は、行くところまで行くと、自己自身を放擲する。一切を包括する真理を拠り所としてその真理と一つになって生きて行く。真理の家へと帰還し、つまりは、主体的に生きることが、あたかも生かされることになり、生かされていることこそが、主体的に生きることになることよって自由と必然とが一つになる。身心の脱落と、それによってもたらされる内面の変化とが達成される。擬我になることによって人間が存在の中心から離反し始めると、その擬我そのものが、まさに鳥にとっての翼、木にとっての樹冠のように、人間の本質に固有のものとなる。自我と非我との根本的な対立関係と、それが引き起こす交渉と離反との交錯の結果、対立がいよいよ先鋭化する中で、存在者は主−客の領分野に決定的に分割されるのである。差別の業が確実に進行すればするほど、一なる存在がいかなる形で主—客という二つの陣営に分有されるのか。至福に自足しているこの一なる存在は、擬我という、本来の自己に卓越したこの目覚めた意識によって、傷つけられ、歪曲されたイメージとして再生されることになる。そのとき、この分裂し対立し不調和なるものに対して、不壊なる一性が、主−客の同一性が、存在の原現象と見做されて、過大な栄誉を与えられることになる。差異に対して同一を、数多性に対して単一性を、差別に対して無差別を、相対に対して絶対を前提することが、いかに正当であっても、禅仏教者にとっては、神秘主義本来のものは、数多、相対、差別を超越しているばかりでなく、対立項すら超越している。一つになるのが自然当然当たり前、形態と本質が、容器入物と中身が、本性本体と枠が、元通り一つになる。行先に相手に一つになる。禅を組むのは此処より彼処だ向うだ、枠が中心核で禅を組むんだ。枠と中心核とは主要大部分とは強く深く繋がり結び付き交流し続けている、そのまま相手となる。どうしてこんなに苦しまなきゃならんの？今日でこの苦しみを苦界を抜け出させてくれないなら抜け出せないなら、この枠を殺し死なせ消し去って消え去らせてくれ。今日で終わり、終わらなければ意識はない自分は居ない。もはや自己棄却、完全忘我状態、完全に無意識である。自分を捨てる。自分であるという意識さえも移り拡がっているか、それとも感じられない。寝て起きたら今日今この瞬間にも、別人に生まれ変わっている、16歳に中心核に成っている、そのもの全体全面まで俺に一つに合一している。彼の存在自体の絶対圧倒的に広大な領域は全体全面の大部分を占めている。最近は毎日毎日勉強勉強猛勉強、経済や企業や宗教や哲学や神秘学系などして大分内面の幅は広がったような気はする。スーパーパワーエリートになりたい！！この枠全身丸ごと預け与え委ね任せ擲ち放り出し投げるだけだ。枠とはつまり、そのもの全体全面まで俺の中心であり象徴である。枠が象徴している。実力的には彼でも一番、トップクラスなんだけど、精神的にむらがあるというか、メンタル面に重大な問題が沢山ある。真理を体得するということは、自らの思惟を超えたところで、真理に襲われることであり、悟り、突然に襲われる。感じ知覚する自我は、それ自体の中に蓄積されて、明瞭になって行く生活全体の諸々の状態に即応して、不可解ながらも、やはり抗しがたい形で澄み切って行く。透明化を齎す内面の変化がどれだけの広がりを持つか。彼は悟りを通して、自らが、果てしなく世界の〈あらゆる人間〉と、それどころか人間を超えて〈あらゆる生命体〉と根源的に、絶対他力的に、神秘的な形で結びついていることを、自分の方から求めたのであれ、他から与えられたものであれ、他との関係は一切、本当はこの根源的連関の啓示に他ならないと悟る。苦しむ者が救われるには、自らの運命を肯定し、自らに課されたものを泰然として受け入れる。苦を足掛かりにして成長し、苦から解脱できる。自分自身を放擲した者が、自らの運命と一致しようと努め、運命は法にかなって展開され成就されているのだと進んで運命を肯定する。自らを通して存在が完成される。そこに現前しているのは、存在そのものの定有であり、存在の顕現であることを、禅体験は明らかにしてくれる。存在というこの根源的連関は、独立し様々に変化した形で体験されるが、しかも人間存在のような存在者が、いわば存在から遥かに掛け離れてしまい、存在という自らの根源を見失ってしまったと見えた時でさえ、この根源的連関は依然として明白であり続ける。静寂の中で精神を集中して行く。本来の自己を志向し、その自己を乗り越えて行く。内面の営為にとって、禅者の日々の精進、日々の修行は重い意味を持つ。禅者は、日々時々刻々常に途上にあるのであり、時間を超えながら、しかも時間の唯中にあって、「愚の如く櫓の如く」只一心に、現実の生活、運命、生死と一つになって生きて行くのである。仏教においては、悟りとは、瞑想作業の出発点となる真理を純一に見ることを意味している。一切の感情的夾雑物が排除され、出家の因となる諸々の認識が反復され、そうすることによって、修行の道に踏み出したばかりの未悟の仏陀の原体験が追体験されるのである。自己の本性の究極の根底、自己自身を見出す。脱却し合一へ向かう。いよいよ字から枠に戻って返って来る、字の効果が枠に出てくる、枠を抉じ開け世界の知識内容を詰め込み入れる。字の通りの枠になれる。どんな部分も何時いかなる時も全体の一部であり他の部分との連関として考えられる。あらゆる学問の分野でさえ他の分野との連関と永久普遍の真理であり中心であり全体である神に繋がっている。部分の独立志向が高いほど、全体への依存度は一見薄まるように見えるが常に全体の一部だ。部分部分の多様性が衝突が融和が全体のエネルギーをダイナミズムを生む。全体は動く？躍動する？あらゆる部分の本質も常に全体であり、部分がまた全体をも象徴している。どれほど独立志向の高い強い部分といえど、常に全体との連関として理解されるべきだ。何度も何度も自殺を試みたけど、その度に引き戻され異常な軌跡道程を経辿った、つまり全部の時期も今枠となる。人間の離心は一体何によって生じるのか？人間はもともと〈存在の中心〉を拠り所として無心に生きて行ける、その生活をあるがままに理解することによって、あらゆる存在の秘められた意味を解読する能力をも具えている。人間にとっては、個体という境界を突破して、一切の存在者と内面的に触れ合い、いかなる異郷の地にあっても、必ず縁者に出会い、その縁者を自己自身と見なして、その〈自己〉の中に〈存在の中心〉を認め、その結果、あたかも生かされているかのように生きて行くことが全く自在にできる。呪縛されていた個体という厳しい拘束から一歩一歩解脱して行く。そしてついには、あるがままのものとして、つまり定有の中枢として、存在を証するものとして帰依されることによる。
