彼が直接には自己自身のみを認識し、他のすべてを間接的に認識する。本来の意味における真の現存は、すべて個人に属する。客観は主観に制約されて存在し、従ってかの広大無辺なる外界はその現実存在を認識者の意識の内に有し、それ故にその意識を担う個人の現存に決定的に拘束されており、この意味において外界は、どこまでも個人的なる意識の単なる装具、偶然的付帯物とみなされることさえできる。これらすべてを明らかに考慮に入れて省察するならば、今や人は、内に向かう哲学、直接的に与えられたものとしての主観から出発する哲学、すなわちデカルト以来の近代人の哲学のみが正道を歩んでいる、古代人は肝心な点を見逃した、という見解へ移る。この点について完全な確信を得るのは、深く自己の内に沈潜し、そしていかなる認識の中にも存在する根源性の感情を自覚するであろう。自己が最も実在的な者であることを見出し、そして自己の内に必ずや世界の真の中心点を、然り、あらゆる実在の本源を認める。「これら一切の被造は悉皆我なり、しかして我のほか他物あることなし、かつすべての被造物は我が所造なり」有限と無限は空間と時間に関してのみ意味を持つ概念である。空間と時間は共に無限であり無限に分割されうる。両概念を他の事物にも適用するときには、それらは空間と時間を充たし、この両者を媒介にして二つの属性を分かち具えるような事物でなければならない。外界の経験を内面の経験と校合し、それらの意味と連関とを見出して全経験の理解に達する。形而上学は、この道程を辿って、現象から現象する当のものへ、現象の背後に潜んでいる本体へ到達する。形而上学は、物自体が、現実の内的な窮極の本質が、我々の意志の中に存在することを指摘する。同時に魂の本質を世界全体の本質を知る。小宇宙と大宇宙とは、相互に照らし合わせて理解されるのであり、その結果、両者が本質的なところでは同一であることが知られる。人間の内面に糸口をもつ考察は、形而上学全体に浸透してそれをあらゆる部門において充たしている。一つ一つの普遍的全称的真理が特殊的特称的真理に対する関係、一つの普遍的真理を、それから帰結する相当数の特殊的真理によって置き換えることができる。普遍的なものから特殊的なものへ進むならば演繹であり、逆の方向をとるならば帰納である。我に立所を与えよ。哲学の出発点、かようにとりあえず与えられたものとして受け止められた前提は、後になって補償され、すなわちその正当さを証明される。前提は、主観的なもの、例えば自己意識とか表象とか主観とか意志とか、であるか、それとも客観的なもの、つまり他物についての意識において現れてくるもの、例えば実在世界とか外界の事物とか自然とか物質とか原子とか、あるいはまた神とか、更に実体とか絶対者とかその他何だとかのように単に勝手に案出された概念とか、であるであろう。行った任意の選択の任意性を後で補償してその前提を修正するための、やがて立場を取り替えて反対の立場に立ち、そこからして始めに所与として受け取った前提を、補完的な哲学説の中で改めて導き出す。かくて、事物は事物に光を点ずる。まもなく全自然を手中に収める。そこでの所与、すなわち絶対的実在は、概括的に言えば、諸々の自然法則と自然力、およびその基体としての物質がそれであり、これを特殊的にみれば、無限な空間の中に宙に浮かんでいる無数の太陽と、それらを巡って回転している無数の遊星である。照明される球体では、ある腐敗過程の結果、その表面上に生命が発生し、これが段階を追って発達しつつ個体の姿を呈する有機的存在を生み出し、そしてこれらの個体は、生命力を支配する自然法則に従って誕生と死をもち、これによって時間的な始まりと終わりをもつのであるが、これらの自然法則そのものは、他のすべての自然法則と同じように、すべてを支配しつつ、無始無終、永遠にわたって存立している万象の秩序をなす。かの生命の発達の頂点に立つものは人間であるが、彼の生存にもやはりその始まりがあり、またその経過中には多大な苦しみと僅少の喜びがあり、やがて終わりがある。我々の考察を導いて哲学の役割を演じている絶対的自然学は、絶対的に存立し支配している自然法則のもとで、様々な現象が互いに招来し合い駆逐し合っている恒常の有様を、我々に説明してくれる。ここでは、すべての成り行きが全く自然に運ばれていて、それ故にすべてが明快な筋を辿っている。それは存在する。何となれば、それは存在するからである。そしてそれはそのとおりの有様で存在する。何となれば、それはそのとおりの有様で存在するからである。
