枠は神から生まれた。
そういう意味では、この人生の少なくとも眼に見え意図できる目的は、あの16歳のあの日あの時から、個体としての枠の能力を超人的に上げ高めることから全体全面まで広げ広がり一つに合一することに変わったと言える。しかしそれでも生まれる前から生まれ出てから16歳から同じ一つの点を目指していることに変わりはないが。あの薬さえ飲まされ寝たきりで時間を流さなければ？脳味噌ぶっ壊されなければ？兎に角今は、あのパン屋の女の子から電話が掛かって来る事を祈るだけだ。信じられないほどウブで奥手で繊細である。脳味噌から全部の力も搾り絞り出し切れ。外的な身体は魂の所産である。空間の中に存在するものとして知覚される脳も魂によって形成されたということであり、そのような脳を形成する魂が、既に誕生もしくは受胎以前から霊界に存在していたことであり、そしてそれが父母によって与えられた肉体の素材と結びつき、その素材に浸透し、それを組織化した。霊界から降下した霊的魂的なものが物質的なものと結びついた。死後の最初の時期に、誕生から死に到るまでに人間が体験してきたすべてについての広大な記憶像が死者の眼前に拡がる。人生の中で忘れられていたすべてについての出来事もそこに現れる。身体を離脱した彼の前に、大世界のように眼前に記憶内容が立ち現れる。それを展望し、その中に働く作用力を洞察する。記憶の中に閉じ込められた様々の思考内容がすべて解放される。感情する意志、意志する感情、意志が世界を突き進んでいきながら、外に存在する感情をその翼に乗せ、その流れに取り込んでいるかのような現れ方をする。それと共に宇宙の中へ拡がっていき、そして意志する感情という外なる存在に本性を結びつける。外界から聞こえてくる音楽を聴く。真理は貫徹する力を持ち文化の最も狭い岩の裂け目をも通して浸透していく。限界の彼方にも無限の人生が拡がっている。無限の時間の前方にも後方にも限りなく繰り返されていく地上生活が組み込まれている。世界に対する一切の見方の完全な逆転だ。身体の中に留まる限り、身体の感覚器官を通して周囲を眺め脳と結びついた悟性を通して考える。山、川、雲、星星などを眺め、そしてその宇宙の一隅に、点のような存在である枠を見出す。自分がまるで宇宙の中に注ぎ込まれてしまったかのように感じる。身体から離脱した私、時空間全体を充たす。以前外界であったものが今は内界になった。私という存在が全宇宙そのものになる。空間のあらゆる地点から中心点に眼を向ける。中心点も私自身である。まるで時間の中で前へ後ろへ泳いでいるかのようでもあり、その時間の流れの一点に自身を見出し、自身が宇宙になった。人間の姿は輝き響き磁気的電気的なものとなり光線を周囲に放射するものとなって現れる。宇宙は光り輝く人間なのであり、その皮膚は感じ取れる輝きとして現れ、その眼は見ることができ、その耳は聴くことができる。魂の奥深くに潜む内なる創造的な力の現れ、光り輝く存在の内部がよく見える。力の渦が輝く形姿を貫いて流れる。数え切れない星星によって充たされた空間を体験する。星星はすべてが運行している。肉体が別な姿をとって現れる。自分自身に意識を集中すると、光り輝くアストラル体と自分の思考エーテル体とを見、更に内的集中を深めて、内的な星の世界が現れるようになるまで離脱した元の肉体に意識を集中すると、自身の本性の像が、自身の人格化されたカルマ像が出現する。内部に担っているカルマ、それによって様々な運命を作り出してきたカルマ、運命が人の姿をとって目の前に現れる。これが自分の姿だ、自分の道徳的な本性の姿だ、と悟る。現世で個人として生きている姿と同じように、この姿も全く自身である。骨格系という人体の基礎設計が宇宙秩序の中にどのように書き込まれたか、そして人体の諸器官がどのようにそこに取り付けられたかを認識する。我々が地上界で行動し意志を発揮するとき、我々が前へ進もうとして骨格のメカニズムを使用するとき、その歩行の中には宇宙的なこの内なる力が働いている。歩みの一歩一歩の中に宇宙の神霊が共に働いている。筋肉系は感情組織の象徴的な表現だ。筋肉系の中には惑星系全体が存在しており、骨格系の中には宇宙全体が存在している。内的生活感情を燃え上がらせる。枠の中には神的霊的な存在たちの定めた諸目標が集中して存在している。神的霊的な存在たちが幾つもの宇宙紀を経て考え続けてきたものが本性の中へ流れ込んでいる。そして今、それを一つの生活感情にまで濃縮させる。本性は神的宇宙によって貫かれている。感情が筋肉活動の中に流れているのを見、神的霊的宇宙的なものが骨の中に流れているのを見る。全宇宙が骨の運動の中に生きている。全惑星系が筋肉の伸び縮みの中に生きている。
