どんより気分を吹き飛ばそう！もやもやを払拭する！
頭がスッキリした気分だ。やること一杯あるもん、毎日時間も力も全部有効有意義に使い切れ尽せ果たせる。無の反省、すなわち無限なる反省に耐えるには、卓越せる反省が偉大なる信仰が必要なのである。自己は、ひとたび絶望の経験を通じて自己自身を自覚的に神の内に基礎づける場合にのみ、まさにそのことによってのみ健康であり絶望から解放されてありうる。空想的なるものはまず想像力と最も近い関係にある。想像力は更に感情・認識・意志と関係しているので、人間は空想的なる感情・認識・意志を持つことができる。想像力は一般に無限化作用の媒体である。あらゆる能力を代表する能力である。ある人が感情・認識・意志をもっているかということは結局その人がどれだけの想像力をもっているかという点に懸っている。その人の知・情・意の作用がどれだけ反省されているかという点に想像力のいかんに懸っている。想像力は無限化するところの反省である。ファンタジーをあらゆる範疇の根源であると考えたのである。自己とは反省である。想像力とは反省であり自己の再現であり自己の可能性である。想像力とはあらゆる反省の可能性である。強烈なる想像力のあるところ強烈なる自己も存在する。空想的なるものは一般に人間を無限者へと連れ出す。認識の観点から見られた自己発展の法則は（自己が真実に自己自身となる場合には）、認識の上昇の度が自己認識の度に対応すること、自己はその認識が増せば増す程それだけ多く自己自身を認識すること。意志が有限性の立場を超えて自己の企画と決意を昴めることによって、かえって同時に自己自身を今直ぐにも為さねばならぬ或る仕事の部分のかに全く現在的かつ同時的たらしめる（この場合には無限性の獲得はそのまま最も厳密な意味において自己自身への還帰となる）。企画と決意における最高の無限性の獲得の故に意志が最も遠く隔たりながらも実はその同じ瞬間に自己自身に最も近く接近していて、今日この時間この瞬間にも遂行せられうるような無限に小さな部分の仕事をも遂行する。感情ないし認識ないし意志が空想的になることによって最後に自己の全体が空想的になる。それにはより能動的な形態（人間が空想的なるものの中に突入する場合）とより受動的な形態（人間が空想的なるものによって奪い去られる場合）とがあるが、いずれの場合もそれは自己自身の責任である。その場合自己は抽象的な無限性ないしは抽象的な孤立性の中で空想的な生存を営む。無限化は空想的に心を奪い去り陶酔となる。有限性の絶望は無限性の欠乏に存する。いかなる人間も根源的に自己自身たるべく定められており彼自身となることが彼の使命である。一切を賭しうる自己、神の前における自己を所有する。生成ということのためには（そして自己は実に自由に自己自身に成るべきものである）、可能性と必然性とが同様に本質的なものである。自己には無限性と有限性と同様に可能性と必然性とが帰属している。無限性が有限性によって制限されるように可能性は必然性によって牽制される。自己が有限性と無限性との綜合として措定せられ、いまや生成せんとして可能的にある場合、それは自己を想像力の媒体の中で反省するのであるが、そのときそこに無限の可能性があらわれてくる。可能性の面からいえば、自己とは可能的なものであると同様に必然的なものである。何故なら、自己とはむろんそれ自身なのであるが、しかしまたそれはそれ自身になるべきものでもある。それがそれ自身である限りにおいては必然的なものであり、それがそれ自身になるべき限りにおいては可能性である。人間が自己自身になるというのは必然的なる場所における運動である。可能性は次第次第に拡大されてくる、その領域は何処までも拡大されてくるように思われる。最後にはどんなことでも可能であるかのように思われる。ここまできたときには深淵がもう自己を呑み込んでしまっている。一切が次第に瞬間の事柄となる。可能性がいよいよ強烈になってくる。何かが瞬間的に可能的なものとして示される、そうするとまた新しい可能性が示されてくる、最後にはこれらの幻影が非常な速度で相継いで出現してくるので、結局どんなことでも可能であるかのように思われてくる。これが実に個体が自己自身にとって隅から隅まで蜃気楼となった瞬間である。自分の自己の内に存する必然的なるもの（自分自身の限界とも呼ばるべきもの）のもとに頭をさげる服従の力、既に鏡の中で自己自身を見うるためにも必然的に自己自身を知る。自己の必然性が自己を更に正確にどのように規定するか、可能性においては一切が可能的である。
