またキリッと引き締まった凛々しい顔になった。
論理的理念または潜勢的精神は自己の他在を廃棄することによって現勢的になる、すなわち自己に対して露わになる。現勢的精神または精神そのものは、自己自身にとって未知な精神・潜勢的な精神とは異なって、自己自身に対して自己を露わにするものである、または同じことに帰着するが、自分自身の境位において自分の啓示を成し遂げるものである。この規定は精神そのものに帰属する。この規定が精神について当て嵌るのは、精神が自己の抽象的な自己内で充足している一般性から歩み出て、限定された区別、精神自身とは別のもの、を自己自身の中に措定する限りもまた当て嵌る。精神はこの他者の中で自己を維持し且つ実現し、その中で自己の内面を印刻し、他者を自己にふさわしい現存在にし、他者たる限定された現実的な区別を廃棄することによって、具体的な現勢態・限定された自己啓示に到達するからである。精神はそれ故に他者において専ら自己自身を自分自身の本性を啓示するのである。しかるに精神の本性は自己啓示のなかに存立している。自己啓示はそれ自身精神の内容である。精神は精神の全内容を表現する自分の形式すなわち自分の自己啓示を啓示するのである。したがって形式と内容とは啓示と啓示されたものとは精神においては相互に同一である。真実の内容は自分自身の中に形式を含んでおり、真実の形式は自分自身の内容である。神の本性は子を持つ（自己を区別し有限化する）が、しかし自己の区別のなかにあっても自分自身のもとに留まるということ、言い換えれば子において自己自身を直観し且つ啓示するということ、そして子との統一・他者におけるこの自覚存在を通して絶対的精神であるということのなかに存立しているのである。子は自身啓示の内容である。精神が形式と内容との統一を表現していると同じように、精神はまた可能性と現実性との統一である。精神そのものが存在するのは、専ら精神が自分自身を自分に対して露わにする限りである。絶対的精神は精神の現実態と概念、または可能態との絶対的統一である。啓示作用は、抽象的理念の啓示作用としては〔自然への〕直接的な移行・自然の生成であり、自由な精神の啓示作用としては、自然を精神自身の世界として措定することである。そしてこの措定は反省として、同時に世界を独立の自然として前提することである。啓示するということは概念においては自然を概念の存在として創造するということであって、概念はこの存在において自分の自由の肯定と真実性とを自分に与えるのである。絶対者は精神である、これが絶対者の最高の定義である。この定義を発見し、この定義の意味と内容とを概念によって理解すること、我々はこのことがあらゆる教養およびあらゆる哲学の絶対的傾向であったということができる。あらゆる宗教およびあらゆる哲学はこの目標を目指してひしめき合った。世界歴史はただこの渇望からのみ理解されるべきである。精神という言葉と表象とは前に発見されていた。そしてキリスト教の内容は神を精神として認識させるということにある。この、キリスト教においては表象に対して与えられたものであり、単に混沌たる本質であるものを、そのもの自身の境位すなわち概念において捉えることが、哲学の課題である。理念が外面的で個別化された現存在という直接態へ転換する。この転換は自然の生成である。絶対的精神は自己を、自分で存在を措定するもの・自分で自分の他者、すなわち自然および有限な精神、を産出するものとして理解する。この他者は専ら精神が絶対的自覚存在に、すなわち自己の本質存在と自己の現実存在との絶対的統一・自己の概念と自己の現実態との絶対的統一に、到達する手段として現れる。絶対者の最高の定義は、自己にとって絶対的に露わな精神、自覚的な精神、無限に創造的な精神であるという定義である。我々は哲学において、精神の啓示に関する不完全な諸形式から最高の形式へ進んで行く。世界歴史もまた永遠者に関する一系列の理解を表現している。この系列の結末において始めて絶対的精神の概念が現れる。美は自分の観念性のなかで同時に完全に規定され個体化されている。自己内で区別されている〈神の一つの本性〉、すなわち神的精神の全体性は、キリスト教によって始めて、統一体の形式によって啓示された。精神の発展は次の通りである。精神は自己自身に対する関係において存在する。精神は自己自身の内部で理念の観念的全体性を獲得する、すなわち精神の概念であるものが精神自身に対して露わになる。精神にとっては、精神が存在するということは、自分自身のもとにあること、すなわち自由であること、これが主観的精神である。精神は、精神自身によって産出されるべき産出された世界としての実在という形態において存在する。実在としてのこの世界においては、自由は現存する必然として存在する。これが客観的精神である。精神は、それの客観態観念態または概念との現実的自覚的な、そして永遠に自己を産出する統一において存在し、絶対的真実態における精神である。これが絶対的精神である。精神は常に理念である。我々は、我々が一者から他者へ移行する際に始めて、精神における特殊なものを獲得する。特殊なものは一者と他者とを含んでいる。精神の実在性の発展は精神哲学全体を通して始めて完結する。精神が自覚的になるということが精神の実現を形成する。精神が自覚的になるのは専ら精神が自己を特殊化分化し自己を規定するということ、または自己を自己の前提にし自己自身の他者にするということ、精神の精神自身に対する関係が他者に対する関係である限りは、精神は単に主観的な精神・自然に由来する精神であり、それ自身自然精神である。主観的精神の全活動は、自己を自己自身として捉え、自己を自分の直接的実在性の観念性として明示することを目指している。世界は再び精神から自分に解放され、精神によって措定されたものは同時に直接的に存在するものとして捉えられる。有限な精神を包括する。精神は無限な理念である。段階を経過して行く。世界からの解放と世界の中での解放は一つの同じことである。絶対的真実態においては仮象は自己を純化して真実態の形態〔真理の形式〕にし、真実態〔真理〕の知となっている。有限者は端的に専ら移行するものであり自分を飛び越えて行く。精神、すなわち概念および自体において永遠なものは、虚無的なものの虚無化・空疎なものの空疎化を自分自身の中で成し遂げる。精神の本来の質は真実の無限性である、自己自身の中に有限なものを一つの契機として含んでいるような無限性である。精神の実在性こそ始めてそれ自身観念性であり、したがって精神においてこそ始めて概念と実在との絶対的統一、そしてそのことによって真実の無限性が生ずる。我々が制限について知っているということが既に、我々が制限を超越していることの証明である。真実に把握されれば、有限性は無限性の中に含まれ、制限は無制限の中に含まれている。精神は有限化されながらも依然として無限である。精神は自己の中で有限性を止揚するからである。精神の中では全てのものが単に観念的な現象するものである。
