ブッダの超越身への神秘的参与は、ヒンドゥー教においてラーマーヌジャが説く、最高存在としての自己という説に類似している。道とは天の道（天道）であり、観念上のものであると同時に、宇宙の自然の秩序でもある。この道との調和と合一により、人と自然の万物との調和がもたらされる。道家は、最も有益な行いとは自己を浄化し、真理と幸福、自己と世界に対する力を獲得することだと答えるだろう。純粋意識に到達し、万物の内なる真実を見るために、意識の層の覆いを剥ぎ取ろうとした。内なる真実は究極の真理、絶対の至福と見なされており、それにより道士は事物を支配する能力を獲得できると考えた。道家は、「大同」「大道」「大母」などと名づけられた自然の根源的調和がもつ単純素朴への回帰に努めた。一切を放擲することによってすべての生き物を支配する力を獲得する。静寂を保ち無と同化する。善は水に似て、あらゆるものに打ち勝ち、すべての生き物を潤す。道を行うことは天道に従うこと、道によって統治された国は万人に満足を齎す。老子の『老子道徳経』一切万物の根源にあってそれを支配している道と強く合一する、聖人はすべてを放棄するからすべてを得、身を屈するから真直ぐになり、虚ろであるからこそ一杯に満たされる。聖人は太初の「一」をしっかり握り、天下のあらゆるものの規範となる。荘子に帰される道教第二の書『荘子』、改革を行うよりも現実の諸問題から超越しようとする。人間の精神の限界からの個人の自由を説いた。人間は絶対的な真理である道と合一して生きるという意味で、荘子は神秘主義者である。基本的な中国的考え方の一つに二元論あり、それは陰と陽、女と男、暗と明などの対立する二つの原理を想定し、これらの原理は偉大な道から生じたものである。これらの二元理はインドのサーンキヤ哲学における根本原質（自然）と純粋精神に比べることができ、サーンキヤ哲学では男性原理である純粋精神が根本原質から分離することによって自由が達成されるように、道教でも道との合一への回帰は男性原理である陽を通してなされる。有名な道教の経典『黄金の華の秘密』黄金の華の中に生まれた微細身である金剛体という観念、黄金の華は光であり象徴であり「超越的な偉大なる一者」の真の力である。もし陽の力が保たれたら、その時、人は陰陽の相剋から自由な黄金の華の地位に達し、再び偉大な一者である道の一部となる。これは神秘的な合一への探求であり一元論または汎神論である。道教の哲学者は、自然との調和および道との合一へ導く単純素朴と静穏を説いた。民間の道教は、占いと魔術の中にオカルトを求め不死を追求した。大衆の宗教としての道教は、歴史や伝説上の人物と並んで自然の事物や諸力を表した神々からなる巨大なパンテオンを作り上げた。道教はすべての自然の造化を賛美した。風景画は風景自身が道の調和を表すものと考えられ中国美術の中心となった。道を奉じているので、聖人は物事に調和する。心を純化しているので、賢者は造化を楽しむ。風景は物質的存在であり、同時に気韻の世界へ上昇する。すなわち、山や川はその造化において道に敬意を表し、文人はそれをよろこぶ。「もし人が意図的に菩提を求めれば、ブッダは輪廻転生の原因となる」むしろ一切の思慮分別を捨て、心をその赴くままにすることによって、坐禅者は究極の真理である空に到達する。古神道の神は自然、祖先、英雄、魔術といったきわめて多種多様なものを表している。同じ聖なる血が植物、動物、人間、神々を一貫して流れている。宇宙は生命に満ち溢れており、人はその生命を分有して、かつそれを特別の聖なる場所において崇める。六世紀に仏教が伝わると、神道の多くは埋没するか吸収された。インドや中国で仏教は幾つかの土着神を変容させたが、日本では事態が更に進んで、多くの神社や聖域が覆され、神仏習合の両部神道などが出現した。仏は神の表れであるとされたり、仏教の道具が儀式で使われたりした。神道と仏教の影響は絵画と文学において重なり合い、特に日本の茶道において顕著に現れた。すべての限りあるものが無限を語る。天理教の祈りにおいては、衝動的なダイナミズム、エネルギー、極度の熱狂、興奮、確固とした決意を流れるような動きのなかに感じる。神との栄光に満ちた交わりのうちに人間の全存在が溶解してしまうような神秘的高揚による忘我の思い、アジアの原始民族におけるシャーマンは、第一に霊魂の指導者、宗教の最高の表現であると考えられるエクスタシー経験に習熟した者である。トランス状態にあるシャーマンは空中を飛行し火中を無傷で歩くと考えられ、その魂は身体を離脱して天へ昇ったり地下世界へ降ったりするとされている。シベリアにみられる習俗の記録によれば、シャーマンは天を通り抜けて天の向こう側まで昇り、至高の創造者と会話する。世界帝国への進行は常にまた世界神への進行である。神に対する債務、義務、負い目、内面化され自己自身の内へ逐い戻された動物人間の自己呵責への意志、内攻した残忍性、自分自らに苦痛を与えるために良心の疚しさを発案した。彼は神と悪魔との矛盾の間に自分自らを挟む。彼は自分自身に対する、自分の存在の本性・本然・事実に対するあらゆる否定を肯定として、存在するもの・生身のもの・現実のものとして、神として、神の神聖として、神の審判として、神の処刑として、彼岸として、永遠として、果てしなき呵責として、地獄として、量り知れぬ罰および罪として、自分自らの内から投げ出す。それは精神的残忍における一種の意志錯乱である。固定観念の迷路から一挙にして脱出するために事物の最奥に罪と罰の問題の害毒を感染させようとする人間の意志、一つの理想「聖なる神」という理想を樹てて、その面前で自分の絶対的無価値を手に取る如く確かめようとする人間の意志、この錯乱した痛ましい人間獣の上に禍あれ！
