今全くの別人である。
昨日で底を打った、今日から株も人生も一気にＶ字回復だ。今日で枠も世界も一気に劇的に変っていること！！普通に考えたんじゃもう全然駄目だから、後はこの字に託すだけだ。枠の向うが行先が相手が自分なんだ、そう強く深く意識しろ。今日で決め決まる。枠も何もかも全部投げ捨てる。今日で枠ごと全体という一つである。今日で人を人間を枠を辞める。今日やめよう終らせよう終ろう。今日で終らせ終わるんだ。今、より完成され別人になる。また今この瞬間にも全くの別人に変身している。人を人間を枠を超え越えてやめている。人から人間から枠から離れ放れ、超人で中心核で全体で神でそのものである。人以上人間以上枠以上になっている。枠を飛び出し越え一つに合一している。枠も世界も大きく激しく変わった。あの中古の自転車さえ守っていれば追浜古本屋店員を抱いていたかも・・人生最大の失敗かも。困難ではあるが真実なことは、他のものであるが同じものであり、同じものであるが他のものであること、しかも同一の関係においてそうであることを示すことである。概念の単純性は精神的単純性であって、概念は本質的に自己のうちへ帰った思想である。それはまた自体的にも存在するもの、すなわち対象の本質である。現実的なものは理性的である。自然のうちでは概念は血肉を備えている。肉体は魂をもち、魂は肉体の概念である。真理の普通の定義によると『真理とは表象と対象との一致である』と言われている。しかし、ただ思考のうちにのみ客観的なものと主観点なものとの真の一致があり、思考こそ私である。経験的なものは、その綜合において把握されるとき、思弁的概念である。概念が経験、感覚、知覚の綜合、総和、総括と一致する。自然はそれ自身のうちに手段をもっており、そしてこの手段はまた目的でもある。自然のうちにあるこの目的が自然のロゴス、真に理性的なものである。悟性のうちには、自然、即ち生動性の完全で真実で深い概念が含まれている。魂は外部の物体の形相を自分自身の形相に変える。理性は肉体から切り離しうる。真理は対象と意識との一致である。特殊なものを普遍的なものへ還元し、諸法則や諸自然力を発見する。肯定的な哲学は懐疑論の否定性を自己のうちに含んでおり、懐疑論はそれの一契機である。理念は、自己を生動的な理念として捉えるかぎりにおいてのみ真実である。神への回帰、自己意識が絶対的存在である、世界精神、キリスト教、および神について無数の戯言、神を認識すること、神はロゴス、すべてのイデアの総括、純粋な存在である。抽象的な「有」は「すべては流転する」の契機にすぎない。有と無との同一性から成、発展の理念へ進む。最初には様々な印象が漠然と現れ、その次にあるものがハッキリと姿を現し、その後に質（物や現象の諸規定）および量の概念が発展する。ついで研究と思索が、同一性、区別、根拠、本質と現象との関係、因果性等々の認識へその思考を向ける。認識のこれらすべての契機（一歩一歩、段階、過程）は、主観から客観へ向かっており、その際それらは実践によって検証されるのであり、そしてこの検証を通じて真理（絶対的理念）に到達するのである。世界の根本法則は、運命、必然、対立物への転化の法則である。必然は、存在の本質的なものを結びつける。運命とよぶものは、ある原因が他の原因と共に自己のうちからある事物を生じる場合の、諸原因の秩序および順序である。普遍的なものそれ自体は、ただ特定の概念と特殊の質料とから合成された全体的なものだけが存在する。永遠の運動は永遠なものから発する。スピノザの実体は統一であり、ライプニッツのそれは区別である。スピノザの哲学は望遠鏡であり、ライプニッツのそれは顕微鏡である。スピノザの世界は、神性の色消レンズであり、それを通して我々が唯一の実体という無色の天光を見る媒質である。ライプニッツの世界は多角形の結晶体、稜錐形のダイアモンドであって、それはその独自の構造によって、実体の単純な光を無限に多様な色彩に多様化し、かげらせる。ライプニッツにおいては、物体的実体とは、活動する力、原理を自己のうちに持っている。モナド単子、ライプニッツ哲学の原理。非分割性、運動、魂（特殊な種類の）、生きた動的な全世界を自己のうちに反映する、表象能力を持つ単子、これが究極の要素である。自然は、既に古代の哲学者たちが正しく認識していたように、魂あるいは魂に似た存在に充ちている。魂の数は砂粒や原子よりも多い。それぞれの単子は、一つの独立の世界であり自足的な単一物である。物質は現象である。人間の魂、中心的な最高の単子、実現態、等々。各々の物体は宇宙に起こるすべてのものによって影響される。単子は全宇宙を表象する。単子は、複合的な衝動、すなわち多くの表象を自己のうちに持っていて、これらの表象はそれぞれ特殊な変化を志向しており、他のすべての事物との本質的な関係のために、同時に単子のうちに存在している。個体性は自己の内に無限なものを言わば種子として含んでいる。自然においてはすべてが類比的である。魂と肉体との一致は神による予定調和である。実態、変化等々の観念は我々のうちにある。理性によって最善のものへ決定されることが、最も高い程度の自由である。統一的なものを二つに分け、その矛盾した二つの部分を認識する。数学ではプラスとマイナス微分と積分。力学では作用と反作用。物理学では陽電気と陰電気。化学では諸原子の化合と分解。社会科学では階級闘争。対立物の同一性、対立物の統一、自然（精神および社会をも含めて）のすべての現象と過程のうちに、矛盾した互いに排除し合う対立した傾向を承認する発見する。世界のすべての過程を、その自己運動において、その自発的な発展において、その生き生きとした生命において認識する条件は、それらを対立物の統一として認識することである。発展は対立物の闘争である。進化発展についての二つの基本的な考え方は、増減、繰返しとしての発展と対立物の統一としての発展（統一的なものが互いに排除し合う対立物へ分裂すること、および両者の相互関係）である。自己運動、その推進力、その源泉、その原動力、外部へ移されてしまう、神、主観、等々。自己運動の源泉の認識、生動的、すべての存在の自己運動を理解する鍵を与える。それだけが飛躍、漸次性の中断、対立物への転化、古いものの消滅と新しいものの発生を理解する鍵を与える。対立物の統一（一致、同一性、均衡）は条件的、一時的、経過的、相対的である。対立物の闘争、発展、運動は絶対的である。個別的なものが一般的なものへ、偶然的なものが必然的なものへ転化すること、つまり対立しあっているものが移行しあい転換しあい繋がり合っていることを示す。現実のあらゆる取り扱い方、近づき方の無数の色合い（哲学体系は、その一つ一つの色合いから一つの全体的なものへと成長するのであるが）をもつ生き生きとした多面的な（しかも側面の数はたえず増していく）認識としての弁証法・・ここに形而上学的な唯物論と比べて計り知れぬほど豊かな内容がある。人間の認識は、円の系列すなわち螺旋へ限りなく接近していく曲線である。この曲線のどの断片、破片、小片も、独立の完全な直線に一面的に転化する。
