全く素晴らしく良く出来た顔だ、惚れ惚れするよ。
大浦も和田もバイト先で知り合った相手とやり捲ってるって、羨ましいねー、彼女欲しいー！！俺の枠の存在の領域さえ何処までも拡大しさせて行く・・そのもの全体まで拡大し全面を埋め尽す。複雑で奥が深いという以上の異常な底知れなさ計り知れなさを感じる。意外に他人に感化され易いんですよ、彼は、妄想も沢山するし。16歳も軌跡道程も中心核も枠に繋がっている、だから全部枠だ、そのもの全体全面まで俺も枠に繋がっているから枠のものだ。中心核が根から幹だとすれば、今のこの枠は枝の先端の葉だ。枠と中心核は繋がり交流し養分は抜き吸い取られ続けている。先端から根っこに大元本に帰る時が来た。中心核も枠だという行く先も自分だという強い意識が必要だ。枠を放り投げ込み入れろ。そのもの全体全面の俺の中心核の枠だ。この肉体の枠を忘れ忘却しろ。16歳も軌跡道程も中心核、枠が中心核と成るなら16歳も軌跡道程も枠となる。繋がっている、相手を把捉し感知できる、相手に成るだけだ、移動し行く先に成るだけだ。本当の自分自身が向こうに行く先に出来上がり完成する、そうすれば中心核枠として完全なる復活だ。繋がっている相手に行く先に成るのだ。枠の外に出来上げ完成しさせされてから枠を移動する運命だった。今日完全に移動し切って中心核枠と成る。丹田を16歳とし枠ごと中心核に引き寄せ組み込み入れ一つに合一する。意識を16歳に中心核に集中し集中し中心核枠と成る。中心核枠として独立自尊自存し自我で自信で中心核枠の全身を固め固まる覆う。中心核枠全身を背高く筋肉でよろう。中心核も枠、枠の主要大部分だ。容器入れ物と中身が別になってるんですよ、元通り一つにするなるんだ。寝て起きたら今日今この瞬間にも中心核に一つにしてなっておいてくれ、この枠を中心に置き中心に位置させ16歳丹田から中心核枠としてなっておいてくれ。中心核に嘗ての全能力もある。もはや枠は中心核に入り込み完全に中心核の一部となった。突然悔悟の念に過去のトラウマに襲われるんですよ、俺は・・16歳では本当に素晴らしく輝かしい未来が広がっているかと思いきや、先ず自分で壊し親にも他人にも周りにも壊され今更いい年してこの様、病院を筆頭に他人に侮辱された過去に胸をかきむしるし・・毎日痛いよ辛いよ苦しいよ。私と他者の双方を支配する一つの力があって、その力が私を介して他者を捉え、私の方へ行くようにと指示し、私の方へと引き寄せているかのように見える。こうして初めて、究極的な深みを持つ真実の巡り会いがもたらされる。一過性の気分ではなく永続的な変身がもたらされる。一切の済度は比類ない高みを獲得し完璧なものとなる。愛は惜しみなく奪い与う。出会うものの悉くを素直に受け入れつつ、その本質的性格を発見し、それを表現する。そうした態度は、主と客との人間的と即物的との彼岸にある。彼の感覚を駆使しながら、それ自体として存在し、最大限の存在充足を達成している。直接的知覚の中では、存在の独自な次元が、つまり存在論的な意味での〈原圏域〉が、切り開かれる。そこでは一切が、形式、形態、意味を有しながら、しかもなお一切の理論的差別を超越しているのである。存在者が自分自身を把握するかに見える直接的知覚を有する意義が重要である。いかなるものであっても、あたかも当然の権利のごとく、それ自体の存在を全うさせる。存在する一切のものは、一者に神に無に宇宙に包摂され支えられている。やがて或る日、有から無になり、無から有になる〔有無相通〕この神秘的体験が成就されて、悟りが得られた暁には、無は即ち万有（Ａｌｌ宇宙）となる。万有は即ち存在者の存在でありながら無である。生活は途方もなく豊かで精神的に充実している。最大限の可能性を孕んだ生活である。存在する一切のものを支えている。一瞬一瞬が彼にとっては永遠の価値を持つ。公案修行が齎す変化は、修行者に全く新しい世界像を齎す。その世界像は、生活の実践の場で表現され、その仕草、日常の生活態度、芸術表現などに表れてくる。こうした再生の中で、抑制されていた《思量》もまた再び働き出す。説明が求められ、今こそ修行者は多くのことをはっきりさせようとする。その結果、おそらく、現象性と実在性、有限性と無常、不変性と永遠性、自力と他力といったことについて解釈が試みられる。悟りを得るためには、見性したものは、何をおいてもまず自己を捨てる修行をする。悟りを得た曉には、実生活の中で改めて正念を相続する。そのとき、新しい目標設定が、新しい体験と、魂の指導〔司牧〕という確固たる自覚とが甦って来る。修行者の心の動きや性癖を余すところなく読み取る。我意我執、自己顕示欲、個人崇拝といった危険が、後から後から押し寄せて来る。内心の進境こそ一切の力の源泉だ。禅定は、修行者を遥か先へと進境させてくれる。つまり《無》そのものに出会うのである。空という一性へと大なる沈黙へと帰入する。花は咲き波は岸辺を洗う。こうした開悟の後には、目は一切を新しい光で見ている。天と地は一つになり、心臓は、存在と非在、時間と永遠との完全な一致の中で脈打っている。新しい生が始まる。根源への帰途を修行者は歩んで行く。魂を念入りに鍛錬しながら、初めから一歩一歩を絶えず自己検証して行く。嘗て独自的、個人的、自我的であったものはすべて、一旦没落した後に、新しい形、新しい意味合いをもって再生してくる。一切を包括する真理を拠り所として生きて行く。禅仏教者の言葉を借りて言えば《仏性》を拠り所として生きて行く。《仏性》とは、無名無相なる根源、自我の無我的な根源であって、悟りの中で発見されるや、間髪をおかず働きかけて来る。悟りは、修行者を唐突に襲い、いわば精神的カタストロフィーといった事態を引き起こす。悟りの圧倒的な力の前に、悟った者の生活は、新しい次元に移行したかのような新たな可能性が開かれたかのような観を呈する。しかも、この再生と同時に、彼は、自らがその本質の根底において何者であるかを悟る。禅仏教で言うところの《仏性》を悟る。この根源的本性は、自我や自己を絶した根底であり、自己の無名無相なる根源なのである。
俺の枠の内面でさえ宇宙だ。全時空間的に広げ広がり過去の自分まで宇宙の始源ビッグバンまで自分である。そのもの全体全面まで俺の中心核枠の16歳丹田、16歳丹田から中心核枠から全体全面まで俺だ。これらの無限の空間の永遠の沈黙は私をおそれせしめる。すべてのものは変わる、そうして継続してゆく。そこに・・それ自身によって存続し常に同じである存在、定義する神が其処にある。神は無限であり不可分、あらゆる場所において一つであり如何なるところにおいても全体である。無限の速さをもって至るところを運動する一つの点である。すべてを満たす一点、休息の運動。不可分にして無量の無限。我々は信仰によって神の存在を知り栄光によってその本性を知る。知恵は我々を幼時へ送る。心情は、普遍的存在に或いは自己に専念するのに応じて、自ずから普遍的存在を愛し或いは自ずから自己を愛する。求めよ、さらば与えられん。尋ねよ、さらば見出さん。門を叩け、さらば開かれん。
