永久に生きられるかのように生きている。
少し前までは下痢ばかり続いていた胃腸の消化吸収が良くなったな・・全く不思議な身体だ。そのもの全体全面まで俺の力で枠を引っ張り引き出し上げる。広げ広がり続けた領域も枠の力である。俺の枠の全能力も今発揮しさせされる。俺の枠の領域である。また凄まじい疲労が来るな・・まるで乾いた大地が水を飲み込むように吸収していった。わー、思ったより全然いい男なんだー・・森君の方が全然良い男ですよ。俺も枠も16才から生まれ始まり広がって居る現実を強く強く意識する。一切の権威の克服が力の限り求められている。個性の能力の完全な展開を妨げるものはすべて排除される。十分に深く自分の本性の根底にまで降りてゆくことができるならば、我々一人一人の内部には高貴であり価値あり発展するに相応しい何かが必ず存在している、と確信することができる。完全な全体は一人一人の個体の独自の完全さの上に成り立つ。我々の作り出す何かは宇宙進化に組み込まれていく。これらの現象は個体の最高度に高められた自由衝動から生じている。私たち二人は真理を求める。貴方は外なる人生の中で、私は内なる心の中で。そして銘々がそれを見出す。眼が健全であれば、その眼は外で造物主に出会う。心が健全ならば、その心は内部に宇宙を映し出す。我々自身の個別な能力の発展の中で、真理だけが我々に確かさをもたらしてくれる。個的なものはすべて自分の最も深い内なるものに従って生きようと望む。人生には数多くの領域がある。その一つ一つの領域のために特殊科学が発達を遂げている。しかし人生そのものは一つの統一体であり、個別領域の中で深化していこうと努めれば努める程学問は生きた世界全体の認識から離れていく。再び人間に充実した人生を返してくれる諸要素を個別科学の中に求めようとする知の在り方が必要である。専門的な研究者は認識内容を通して、世界の諸活動を意識化しようと望んでいる。学問それ自体が有機的に生き生きとなるという哲学的な目標を掲げる。真の哲学者はすべて概念芸術家であった。彼等にとって人間の諸理念は芸術素材になり、学問の方法は芸術技法になった。このことを通して、抽象的な思考は具体的で個的な生命を獲得する。理念は生命力となる。事物についての知識を持ち、その知識を自立した生きた有機体にまで作り上げた。我々の活動的な現実意識はもっぱら受動的に真理を受け容れる以上の課題を背負っている。我々の中に微睡んでいるすべての能力を発展させる。知ることは人間本性全体のあらゆる面での発展に寄与するときにのみ価値を持つ。人間が理念界を自分のものにして、単なる学問的な目標を越えた人間的な目標のためにこれを用いることができるように、学問と人生との関係を考察する。自らを主人として理念に対置させる。人間の思考と行為は自由であるのか、それとも必然という鉄の掟に縛られているのか。この問に多くの鋭い洞察が向けられてきた。私が或る事柄を自由であると言うのは、その事柄の本質が必然的に成り立っており、その必然性に従って行動がなされている場合です。強制されていると私が呼ぶのは、事柄がその事柄とは別な何かによって厳密精確な仕方で存在させられ行動させられている場合です。神は必然的であり自由です。神はもっぱら自分の本性の必然性だけから成り立っているのですから。同様に神は自分並びに一切の他者を自由に認識しています。神がすべてを認識するということは、神の本性の必然性に由来することなのですから。自由を自由な必然性の中に置く。我々は神から被造物のところにまで降りていく。すべてが外からの原因によって厳密精確な仕方で存在しかつ作用するように規定されている事物の世界まで。たとえどれ程複雑に構成され、どれ程多くのことに役立っているとしても、すべての事柄は必然的に外的な原因によって、厳密精確な仕方で存在し作用するように規定されている。衝撃を受けた後、特定の方向へ向かって運動することが必然であるように、人間も何らかの理由によって必然的な行動に駆り立てられる。自分を駆り立てる原因についての意識を持つ。自分の行動の根拠を知っている。ああ俺の胸には二つの魂が住んでいる。その二つが互いに相手から離れようとしている。一方の魂は荒々しい情念の支配に身を任せて現世にしがみついている。もう一つの魂は、埃っぽい下界から飛び立って、至高の先人達の住む精神の世界へ昇って行こうとする。この言葉で人間本性に深く根ざした或る性格の特徴を描いている。人間は世界が任意に差し出すものよりもっと多くを求め続ける。自然は様々の必需品を我々に与えてきた。我々に与えられる贈り物は豊かなものであるが、我々の要求はなおそれを上回っている。ある生物が成長し続けて特定の成熟段階にまで達したとする。その過程がどのような条件の下で生じたのかを探求しようとする。事物の中に感覚的に直接与えられているものに留まらず、それ以外の余剰の部分をも求めるとき、存在全体は二つに分裂する。そして我々は自分が世界と対立した存在であると知る。自分が世界から独立した存在であると考える。宇宙が自我と世界の両極として現れてくる。我々が世界に属しており、自分と世界とを結ぶ絆が存在しており、宇宙内の存在であるという感情、対立に橋を架ける。精神生活の歴史は、我々と世界の統一性の探求史である。宗教も芸術も科学も、この目標を追求している。自然の中に包まれて生きているが、自然にとっては異邦人、彼は自然の中におり自然は彼の中にいる。我々が自然から疎外されているのは本当だが、我々が自然の中で自然の一部をも成している。我々の中で生きているのは、自然そのものの働きである。我々は自然から切り離された。再び帰る道を見つけ出す。内なる自然として自分の本質の中に持ち込んでいる。自然を先ず自分の内部に認め外に見出す。自身の内部にあって自然と同質の働きをするものが導き手となってくれる。精神と自然との相互作用、嘗て人間精神が自然から逃れ出た時に、そこから持ち出して来た要素を、自分自身の存在の深みに降りていき見つけ出す。此処にいる我々は自我以上だ。観察と思考こそは意識化されたものである限り、あらゆる精神行為の出発点である。どんな常識的な判断も、どんな高度の科学研究も、我々の精神の二つの柱に支えられている。これまで哲学者は色々な基本的な対立から出発した。観念と現実、主観と客観、現象と物自体、自我と非我、理念と意志、概念と物質、力と素材、意識と無意識などである。すべての対立に観察と思考の対立が先行している、人間にとっての最も重要な対立である。自分を、思考する人格と、その思考する自分を見つめるもう一つの人格、二つの人格に分裂させてしまった。
