瞑想者は静慮の諸段階にあるときに、神々の階級に昇って行く。人間の五十年は四天王の神々にとっては、ただの一日（一昼夜）であり、人間の百年はインドラ神の天国（三十三天）の神々の一日であり、二百年はヤーマの神々の一日、四百年はトゥシタ天の神々の一日、八百年は化楽天の神々の一日、千六百年は他化自在天の神々の一日である。悟りを開く前、まだ菩薩であったころ、仏陀は緊張した瞑想修行により洞察力を一段一段と高めて行き、“神々”〔諸天〕と名づけられる超感覚的生類の明確な直観の度合いを次々に高めた。はじめのうちはただ光明を知覚することができたのみであった。精神統一が高まるにつれて、彼は高度の洞察的直観〔智見極大明浄〕にまでのぼり、今や形状色彩の表象を持つ。それから更に根気よく修行しているうちに、光明を見て色彩形状の表象によって現れる神々と対話することができる。緊張した瞑想の苦闘を更に続けているうちに、追求していた霊感がやってきて、今や自分と対話をしている超感覚的生類たちがどの神々の序列に所属しているか、ということまでも判る。最後にもう一段と修行を高揚すると、この最高の直覚さえも獲得する。彼の洞察力が到達した段階においては、光明を知覚し、色彩形状の表象を持ち、これらの現象によって現れてくる神々と対話をし、彼らがどの序列に所属しているかが判る、というのみではなく、今やそれ以上のことさえも判る。すなわち、その神々がどのようなカルマの結果、以前のある生存段階から去ってその現在の段階に達したのか、その寿命はどれだけの長さか、その生涯にはどのような楽なり苦なりを経験するか、あるいはまた、彼自身が既にいつか以前の発達段階においてそれらの生類となんらかの関係があったかどうか、というようなことさえも判る。神々についてそのような明瞭な洞察力を得ることに成功したときに、はじめて仏陀として最高の完璧な悟りを開くことができた。仏教では、認識への道は瞑想を通じて進み、その瞑想は高次な意識への鍵であり、修行者はこれを本来の手段として、感覚的生存の束縛から解脱をかちえるのである。潜在意識の中に意識的精神活動のための構成力〔行〕があるのと同様に、呼吸の中に肉体活動の形成のための構成力が存在している。あらゆる構成力の中に入り込み、それらを制御する。構成力〔行〕が肉体という家を建てる大工にたとえられる。瞑想の最高段階〔無種子三昧〕、教理の立場からみて最も神聖なるものとみなす。修行者はこの領域に近づくためにまず内面を完全に清浄にする。修行者は瞑想に入るより以前に妨げとなる激情等の五つの束縛から完全に離脱する。五つの束縛とは、あらゆる俗世上の欲望、他のものたちを傷つけたいというあらゆる願望、あらゆる憎しみと怠惰とねむり、虚栄と軽蔑（臆病と不安）、正しい道についてのあらゆる疑念、である。仏陀伝説によれば、菩薩が菩提樹のもとで静慮の第一段階にのぼるに先立ち、右に述べた五つの敵がマーラ〔魔〕の軍勢として現れるが、菩薩はこれを撃退するのである。修行者は“光明を自覚し”正念正知し、心を静め、あらゆる生類を慈しむ心によって自己の魂を清浄なものとして、自己の内面の敵を撃退するのである。このようないわば準備的な考察によって妨げとなる感情のすべての同様から離脱すると、若干の比喩がそれを具体的に描写しているように、重荷をおろしたような、あるいは又、体力を消耗せしめる痛ましい病がなおったかのような、あるいは又、牢獄や奴隷の身分から解放されたような、あるいは又、恐ろしい危険な荒野からのがれて安全な故郷の村に辿り着いたような、そのような気持となる。このようにして、先に述べた妨げを克服したという意識に基づき、まずはじめに歓悦の情が生じ、歓悦から歓喜が、歓喜から肉体の平穏が、平穏から安楽が漸次生じ、精神はこうした至福に満たされ、ついに精神統一に達する。かつまた、この精神統一の状態にあって、精神は観想ないし瞑想〔静慮〕の第一段階から第四段階へと向上する。第一段階では、あらゆる卑しい欲望から離脱することに成功しているが、なお様々な対象物を表象することは存在していて、その離欲に起因する喜ばしい愉楽の感情が全身にみなぎっている。第二段階では、精神は全く落ち着き、統一体として集中されている。精神統一から生ずる至福という愉楽が身体にみなぎり、この愉楽は冷たい大河にたとえられ、しかも、その大河の源泉は内部にある。第三段階では、瞑想者は冷静と正念正知とにとどまり、歓喜を超越した至福が身体にみなぎる。最後の第四段階では、瞑想者は苦楽等のあらゆる感性を捨て去り、純粋な冷静と正念正知とにとどまり、全身に霊的光明と清純とがみなぎる。第一段階では、感覚的ならびに超感覚的な対象物についての表象となお結び付いている〔有尋有伺定〕。第二段階では、超感覚的で霊気的な対象物のみがまだ存している〔無尋唯伺定〕。そして第三段階では、あらゆる対象物を捨て去ってしまう〔無尋無伺定〕。第一観想以上に属するすべてを包括する。相を把握する。自分も悟りを開くよりも以前には困難と戦わねばならなかった。正しい瞑想に対する妨害と攪乱、つまり、疑惑・注意散漫・怠惰と眠気・かたくなな昏迷・心霊的均衡の欠如・鈍重・精力の過剰・精力の不足・放心・自己沈思の過剰、これらを自己内部の間断なき緊張せる闘争によって順次に克服した時、その時はじめて真実なる成果を得たのである。現世肉体において達成し得る最高の目的に達成する。最高の意識状態に達する。現実の意識状態を超越する。軌跡道程にも残し余してきた力は沢山ある筈だ、それらも全部使い切る尽す果たす。現象の美の観察に没頭している〔浄解脱〕。色彩の諸現象を観照する際に、瞑想者の意識は色彩の階段を端から端まで隈無く経験する。意識の諸段階はそれぞれの原素の諸領域と一致する。仏教ではこの観点を更にその先まで保ち続ける。それぞれの意識領域は同時に特定の世界領域〔界〕として現れる。意識段階とか世界もしくは世界領域とか言うような諸概念は仏教では相互に全く融合している。瞑想者が意識の高次の段階に昇るにつれて、そのたびに、それぞれ別の世界領域、世界場面に昇ることになる。これらの上位における高次のものたちが本来の意味における神々の序列であり、サンスクリット語仏典においてもパーリ語仏点においても原則として九序列に区別される。第一、四人の大王すなわち世界守護者〔四大天王〕、第二、インドラ〔帝釈天〕を首班とする三十三神〔三十三天〕。第三、ヤーマ神郡〔夜摩天〕。第四、トゥシタ神郡〔兜卒天〕。第五、ニンマーナラティ（創造的形態に喜びを持つものたち〔化楽天〕）。第六、パラニンミタヴァサヴァッティ（他者の創造を支配するものたち〔他化自在天〕）、第七、ブラフマンの天の神郡（梵身天〕または〔梵衆天〕）。第八、アーバッサラ（〔光音天〕または〔極楽浄天〕）。第九、スッダーヴァーサカーイカ（清浄な居住神たち〔浄居天〕）。すべてこれらの生類が所属する世界は官能的欲望の領域である感性世界よりも上にあり、瞑想すなわち静慮の第一段階においてその世界に昇れる。この高次の霊的領域は、瞑想においてはじめて実現せらるべき領域であり、色界、すなわち“形状の領域”もしく
