事実と妄想等の想像を分けて考えろ。本当は一緒に融合して考える。
嘗て為され存在した今為す存在する将来為され存在するであろう何もかも全部が「全体」の中にある。全部の時期あらゆる頃あらゆる時の自分も枠も世界も「全体」の中に居る有る存在する。16歳から広がる16才以上の中心核枠に今にも完全復活！！意外に常識人と言うか、何ともはや・・優しいなー、あんたは・・優しすぎて繊細で傷付きやすい。そのものも俺も肉体の枠を持つ。そのものの俺の肉体の枠である。肉体の枠は全体の所有物である。そのもの俺全体の肉体の枠である。他は殆ど整った、後はこの肉体の枠だけだ、今日中に肉体の枠の問題を解決する。カッと大きく眼を見開いた。ここまでかというくらいに、枠からは抜かれ奪われ持ってかれてしまう・・そのものにも俺にも中心核にも16歳にも肉体の枠が必要？罪とは、人間が神の前に（ないし神の観念を抱きつつ）絶望的に自己自身であろうと欲しないことないし欲することの謂いである。神の観念が彼の絶望のなかに一緒に取り入れられている。彼は何物にもまして神を愛している、神は彼にとって彼の秘められた苦悩における唯一の慰藉である。彼は心から喜んで神の前に彼自身であろうと欲する。彼は永遠が彼を苦悩から解放してくれるであろうことを希いながらも、ここすなわち時間的な現世においては、それを自分の自己の欠くべからざる部分として決意して身に引受ける。彼は神に対して不幸な愛を抱いている。自分のこの苦悩を棄て去ることが、すなわち、信仰においてその苦悩のもとにへりくだり、それを自分の自己に帰属しているものとして身に引受けることが、彼に要求されていることであることを、彼は漠然ながら理解している。ところが、彼は自分の苦悩を自分から遠ざけようと欲しているのであり、それによって実はかえってそれを固持しているのである。彼の葛藤は本来次のようなものである。自分は召されたるものなのであろうか？肉体の刺は自分が或る異常なことに用いらるべきものだということの徴なのであろうか？自分の身に成り出でたこの異常なものは神の前には全然正常なことなのでもあろうか？それとも肉体の刺は、自分が人間一般の立場に到達しうるためにそのもとにへりくだるべきものなのでもあろうか？これまで問題にしてきた自己意識の上昇は、「人間的な自己」とか「その尺度が人間であるところの自己」とかいうような規定の内部で起った。けれども自己は、それが神に対して自己であることによって新しい性質ないし条件を獲得するのである。この自己はもはや単に人間的な自己ではなしに、神学的な自己ないしは神の前における自己とでも名づけらるべきものである。自分が神の前に現存していることを自己が意識するに至るとき、自己が神を尺度とするところの人間的自己となるとき、それはどのような無限の実在性を獲得することであろう！自己が神を尺度にするに至るならば、何という無限のアクセントが自己の上に置かれることであろうか！自己が何に対して自己であるかというその相手方が、いつも自己を量る尺度である。罪はそれが神の前にあるということによって実に恐るべき或る物となるというのは、比較的古い時代の教義学がしばしばそれへと還り来った一つの非常に正しい思想であった。人々はこの思想によって地獄の刑罰の永劫性を証明した。罪はそれが神に対してなされたものであるということによって無限にその罪の度が強くなるのである。絶望の度は自己意識の度に従って強まる、自己は自己に対する尺度のいかんに従ってその度を強める、そして尺度が神である場合には自己の度は無限に強まるのである。神の観念が多ければ多い程、それだけまた自己も多い。自己が多ければ多い程、それだけまた神の観念も多い。自己がこの特定の個体的な自己として、自分が神の前に立っていることを意識している場合、そのとき始めてそれは無限なる自己である。そしてかかる自己が神の前に罪を犯すのである。いかに無限に深い意味において人間的自己が自分の最も深く秘められたる願望と思想においてさえも神に従順であるべく義務づけられているか。神はかかる目配せによって自分の意志の何たるかを特定の個体に示唆するのである。人間は弱さと脆さの故に罪を犯す、次には彼は自分の弱さに絶望して、自分の弱さを絶望的に或る合法的な正義に祭り上げるものである、それとも絶望して再び自分を罪のなかに陥れるのである。この定義は諸々の罪のあらゆる考えうべきかつあらゆる現実的な形態を包括している、しかもそれは更に絶望が罪でありかつ罪は神の前に起るものであるという決定的な点を正確に表現している。定義としてそれは代数の方程式のようなものである。定義が例えば網のようにあらゆる形態を包括している。信仰とは、自己が自己自身でありかつあろうと欲するに際して、同時に自己自身を自覚的に神に基礎づけることである。罪の反対は信仰である。人間が個体的な人間として神の前に現存するという実在性をもつべきであるという点、したがって（そこから帰結することだが）、人間の罪は神にかかわっているべくであるというその点に、躓きの可能性が存する。
