人間の心に入り込んで興味を呼び起こすすべてのもの、善、美、偉大に関するすべての感覚が自己を主張するし、私たちの承認を得、私たちの実行意欲をかきたてる目的が、あらゆるところに登場します。それらは希望の対象にも恐怖の対象にもなる。こうした事変や偶発事のすべてには人間の行為と苦しみが露出している。変化を眺める人の胸に湧き起こるもう一つの思いは、移ろい行く変化が、同時に新しい生命の登場であり生から死が生じるように死からは生が生じる、という思いです。精神は自分の存在の外皮を食い尽くし、灰となった後に若返って他の外皮に移り、より高貴で輝かしく純粋な精神となる。自分と対立し、自分の存在を食い尽くしながら加工し、その教養が新たな教養をつくりだすための材料となる。精神の変化がたんなる移行や若返りや元の状態への帰還というにとどまらず、自分の試みのための素材を多面的に加工していくことであるのを考えると、精神とは幾つかの方面に向かっての自己実験、自己格闘、自己享受であるのが分かる。自己と関わり続け、満足のゆく創造がなされると、それが精神にとって新たな素材となり新たな加工が要求される。たんなる変化という抽象的な思想に変わって、自分の力をあらゆる方面に向かって発揮し発展させ充実させていく精神、という思想が生まれてくる。精神にどんな力が蓄えられているかは、精神の多様な産物と形成物から見てとることができます。精神は歓びに満ちたこの活動のなかで自分だけに関わります。精神が、内外の自然条件との関わりのなかで抵抗や障害にぶつかったり試みがしばしば失敗に終わったり自他の力で混乱に引きずり込まれ身動きできなかったりすることはある。しかし、精神は自分の使命を全うし自分の力を発揮して没落していくのであり、精神的な活動の行われたことは目に見える形で示されます。精神はその本質からして行動するものであり自分本来の姿を行為ないし作品と示すものです。自分が対象となり自分の存在を目の前にします。民族精神も同様で、それは一定の輪郭を持つ精神として自らを現に存立する一つの世界へと築き上げる。民族の存在は、既に出来上がった確固たる世界として目の前にあり個人はそれに帰一する。このように自分の作品と世界をつくりあげたとき、民族精神は安定した自足の状態にあるといえる。民族は、自己の意思を実現するなかで、公共心と高潔さと力強さを獲得し、また自分を客観化する労苦のなかで、外部の暴力からその作品を守ります。こうして、民族の潜在的で主観的で内面的な目的本質と、その現実の姿との間にある分裂が破棄され、民族は自分を対象として捉えつつ自足しています。そうなると精神は安息状態にある。真に普遍的な問題意識がかきたてられるには、民族精神が新しいものを意欲しなければならない。自分を更に高め更に一般化するイメージが生まれ、現行の原理がこえられるには、一歩進んだ原理が新しい精神として登場してこなければならない。自己完成と自己実現を果たした民族精神の内にも新しい原理が登場してくる。民族精神が肉体を持った個人と違うのは、それが共同の存在であり、したがって、自分を否定するものをその共同世界の内部に存在として含むからです。民族精神は普遍的な原理を根本要素とし根本目的とするかぎりでのみ世界史的な存在です。一民族の教養文化の最高点は、自分たちの生活や状況、法律や正義や道徳を思考ないし学問によって捉えることにある。思考の統一こそ精神の最も内面的な自己統一だからです。精神はその作品において自分の対象化を目指しますが、自分の本質を対象化するには自分を思考するだけ。思考の次元に達すると、精神は自らの原則たる行動の一般理念を認識します。が、思考の作り上げたこの作品は一般的なものであって、その形式からすれば、もとになる現実の行為や実際の生活とは違っている。一方は現実の存在であり、他方は観念的な存在です。時間の流れは、感覚の次元で否定の力を発揮するものです。思考にも否定の力がありますが、それは最も内面的な無限の形式であって、すべての存在を解体してゆきます。最初に否定されるのは一定の形態を持つ有限な存在ですが、存在とは対象として明確な形をとるもの、したがって目の前に与えられる直接の権威としてあらわれるものです。それが、その内容からして限界のある有限なものと見なされるか、若しくは、思考する主観と、その主観の無限の反省を制約するものと見なされるかのいずれかです。解体と再生に関して第一に注意すべきことは、死から生じる生命それ自体が個体としての生命にすぎず、この転変のなかで類的なものこそが本体だと見なされるという場合、個体の死滅は、類がもう一度個へと転落していくことだという事実です。だとすると類の保存は同一の存在様式が同じ形で繰り返されるという形をとるほかはない。一方、存在を思考によって捉える認識は、新しい形態の源泉であり誕生の地であって、しかもこの新しい形態は、そこに保存の原理と明確化の原理が働いて以前より高度の形態として現れる。思考とは自己同一を保ち続ける普遍的な類だからです。精神の特定の形態は、時間のなかで自然に過ぎ去っていくだけでなく、自己意識の自発的自覚的な活動のなかで破棄されてもいく。この破棄は思考の活動であるのだから、そこでは同時に保存と明確化が行われます。精神は一方で自分の身に纏う実在の姿を破棄すると共に自分の嘗ての姿の普遍的本質を思想として獲得する。生産の原理は、過去の精神の姿の本質を保存するものです。精神の歩みとは、自分を対象化し自分の在り方を思考する精神が、一方で、自分の限定された在り方を破壊するとともに、他方で、精神の一般理念を捉え、その原理に新たな定義を与える、というところに到達します。ここに至って、民族精神の実体的内容が変化し、その原理は、別の、より高度な原理へと上昇していきます。歴史を概念的に捉えるにあたっては、こうした精神の歩みを思考と認識の内に保持することが最も重要です。精神はその本質からして自分の活動の結実であり、精神の活動とは、ありのままの自分をこえ、自分を否定し、自分にかえってくるものです。前進の行く手にある究極目的である。必然の連鎖をなす様々な民族精神の原理は、その一つ一つが普遍的な世界精神の各段階をなすものであって、歴史上の様々な精神のなかを貫流しつつ自らを自覚的な総体へと高め全体を完成するのは、この普遍的な世界精神です。私たちにとって精神の理念こそが重要であり、世界史上の一切が専ら精神のあらわれと見なされるべきだとすれば、過去の事実を辿るに際しても、その過去がどんなに偉大であろうと、私たちは現在に関わるものだけを問題としなければならない。真理の探究を志す哲学は永遠の現在にかかわるものだからです。理念は目の前にあり精神は不死であって、その本質からして今あるものだからです。精神の現在の形態が以前の全段階を内に含む。過去の段階は、確かに、それぞれが独立の段階として順を追って形成されてきてはいるが、精神の在り方という点からすれば、精神自体は不変のままであり、段階の違いは精神自体の発展の違いを示すだけ。現在ある精神の生命は、一方では並列され他方では過去へと遡る様々な段階の循環として
