ここ一年で書を百冊、数年で五百冊は読んだ、全部血肉になった。
16歳丹田から中心核枠と成れ、丹田から全身に異常な力がパワーがエネルギーが噴き出して来る・・もはや己の中に宇宙、自分の中に16歳を感じている。詰め込みすぎて頭がパンクしそうだ、あの16歳の宇宙最高の頭脳ならこんな事は・・16歳の今の宇宙最高の頭脳だ。科学的生物学的見地からも哲学的見地からも宗教的見地からも神秘学的見地からも、この肉体と自分という存在の本質を知る。使命感に燃える。創発とは進化論の中の一理論。一般には、進化の途中で新しい形質や種類が出現すること。また人口生命の哲学はこの理論を次のように展開している。自然界の階層構造の最下層には素粒子があり、それらを構成要素として、原子や分子ができ、更に階層の上の方へ向かって、遺伝子、細胞、組織、更に生物個体、群、社会、文化・精神の世界がある。下の階層における個々の構成要素の自由な運動が上の階層における全体的なパターンを生み出し、上の階層のパターンが下の要素の運動の境界条件としてフィードバックし、個々の運動を間接的に支配する。自然の生命は、高分子や細胞から創発のメカニズムによって生まれ出たものである。ベルグソンはフランスの哲学者。ダーウィンの自然淘汰説に対して創造的進化論を提唱。エラン・ビタルは生命の飛躍、有機的過程の根源的生命力。創造の原理であり真の実在である力。生物内にあって成長・進化を飛躍的に齎す。創造的進化論の基本的概念。ティヤール・ド・シャルダン・・人間は神的な終局の点へ向かって進化していると、キリスト教と進化論を統合する壮大な思弁を展開。個々の諸要素はあくまでも全体との関係で、全体との相互干渉の中で見出される。その意味で諸要素は全体に従属している。フォイエルバッハによれば、神的本質は自然の制限から解放された人間の本質、絶対的観念論の本質は、主観性の制限から、しかもその合理的な制限、すなわち感性または対象性一般から解放された主観的観念論の本質である。ヘーゲル哲学はカントとフィヒテの観念論から直接に導き出される。カント哲学は、主観と客観、本質と現存、思考と存在との矛盾である。ここでは本質は知性に、現存は感官に属する。スピノザ哲学が神学的唯物論であるように、ヘーゲル哲学は神学的観念論である。それは自我の本質を自我の外へ置き、自我から切り離し、実体として神として対象化したが、スピノザが物質をそうしたように自我を神的実体の一つの属性または形式としたことによって、再び間接に逆さまに自我の神性を言い表した。神についての人間の意識は神の自己意識であると。言い換えれば本質は神に、知は人間に属する。思考のゲームだな。ヘーゲルにおいては、神の本質とは、その実思考の本質、すなわち自我、思考するものを捨象した思考である。ヘーゲル哲学は思考（主体的もの）を、主体から区別された存在として表象された主体的なものを神的絶対的存在とした。絶対的哲学の秘密は神学の秘密である。神学は、人間の諸規定から、それらをまさにそうしたものとしている限定性を奪うことによって、人間の諸規定を神的諸規定としているが、絶対哲学も全く同じである。客観的なものや思考されたものは、思考者との対立において可能となり、ここでは思考者は完全に捨象されている。理性は、この捨象により真の自体となり、これこそ主観的なものと客観的なものとの無差別点に当たる。主観性の諸形式は、客観的にそれ自体で存在する絶対的な形式である。絶対哲学は、人間から彼自身の本質、彼自身の活動を外化し疎外する！ここにこの哲学が我々の精神に加える暴力や拷問の原因がある。有限なものの中にある一切のものは絶対者の中にある。同一哲学の中心点である思考と存在の同一性は、その概念あるいは本質が存在を含むものとしての神の概念からの一つの必然的な帰結である。思弁哲学は、神学が神の概念だけに限った特性を一般化して、思考・概念一般の特性とした。思考と存在との同一性とは、理性の神性の表現である。思考あるいは理性が絶対的な存在であり、一切の真理と実在性の総括であり、厳密な神学において神が一切のものであるように、理性が一切のもの、一切の本質的な真に存在するものである、ということの表現である。
