他人への怨恨もぶっ飛ばし飛ぶ。無限に極限まで全体全面に拡大深化し広げ広がり最も細かい部分まで精細詳細に知れ理解できる。『コーラン』神の超越と同時に内在を感じるという神秘体験をした。神に付けられた形容句によれば、神は永遠、全能、全智にして唯一の実在であるとみられ、これを更に発展させて、神のみが存在し、人間は神と一つまたは神と同一であることを意味するとした。「神の御名において」「慈悲深く慈愛あまねきアッラーの御名において」「情深く慈悲深い御方」個人の摂理の中にも働く。我らは人間を創造した者。人の魂がどんなこと私語いているか、すっかり知っておる。我らは人間各自の頸の血管よりもっと近い。アッラーはあらゆることを知り給う。東も西もアッラーのもの。それゆえに汝らいずこに顔を向けようとも、必ずそこにアッラーの御顔がある。まことにアッラーは広大無辺、一切を知り給う。コーランは最高度に有神論的であり、しかもそこでは神が中心となっている。ムハンマドにとって神は、唯一の創造者、ただ一つの独立自存の実在であった。神以外の万物は本質的には存在しないという説は、後に神学者たちによって極端な理神論である絶対へと発展させられた。スーフィズムの神秘家たちのうちのある者たちにとっては、神はすべてであるが故に、世界は神の中へ溶け込んでいるのであり、結局、彼らは実質的な汎神論または一元論へ辿り着いた。ムハンマドの教えの豊かさと多様性がこういった発展を許した。神と人との間のいかなる分離も二つの主だった方法で克服された。第一の方法とは、は神の愛、神へ至る手段としての情熱的な憧憬、神との合一と見神、愛を世界が生まれる以前に神から選ばれた特別な魂への恩寵の賜物とみなした。もう一つの方法は、まさに神の超越と全能説そのものの中にある。それは予定説と自由意志の問題の中に現れるのであるが、そこで根本的な信仰としてあるのは、神が創造者であるから、一見人間の行動とみえるものも実はすべて神が創造するのだとする考えである。最終的に神学者たちは獲得あるいは専有という教義を考え出した。それは人間に、行動に対するある種の道徳的責任を与えるためであったが、この教義によれば、神が既に行ったことを人間は我が物とするのだという。実際には神はすべてであり万物の中に内在する。神は一つであるという教義は、神は唯一者、一つの真実在であることを意味すると解釈された。神と人間との間の無限の距離、淵は、全能の意志すなわち神の力業によって跳び越えられる。宗教的恍惚をめぐる理論と実践全体の背後に控える。神秘家の意識的自己は、突然の輝きの中で顕現する者の超越的栄光によって一つになる。神と人間を同一とする一元論へ導く。私は合一の身体と共に一羽の小鳥になった。私は合一の木を見た。貴方との合一によって私を飾って下さい。「私たちは貴方（すなわち神）を見た、貴方はそれである」被造者が神に出会った際に告白する。合一を求めて一切の我を捨て去り「我に栄光あれ。偉大なるかな、我が境地」と叫んだ。「タウヒード」アラビア語で「一つであること」「一なることを示す」ことを意味する。イスラム教スーフィーの一派では、唯一性を、創造された宇宙からの時間において作られたものからの永遠なるもの神の孤立と分離と定義し、魂を神の観念であり永遠なものであると見なした。魂は一時、有限の世界に落ち込むが、その経験により豊かにされ神的唯一性へ戻る。神の中に永遠の実在を発見する。私は真実在（神）である。創造的な真理である。合一説を極限にまで推し進めた。私は私の愛する者になり、彼は私自身になった。我々は一つの体の中の二つの霊であり、貴方が私を見るとき貴方は彼を見ている。神と人間との区別の二元性を超えて、意志と霊との合一へ至る。彼（神）の霊は私の霊、彼が望むことは私が望む。私が心の目で主にまみえ、貴方は何処に居るのかと尋ねると彼は答えた。貴方自身だ。イエスは一色からなる合一を教えたが、その弟子たちがそれを様々な色に変えた。預言者や指導者が次々に現れ、魂が輪廻するようにものは、実際は神的合一が連続して現れたものである。諸宗教や宗派の多様性、神の愛においてすべては合一している。ランプは様々な形をしているが光は同じ・・イスラム教徒、ゾロアスター教徒、ユダヤ教徒の間にある、意見の相違は立場の違いによる・・愛のみがその争いを終わらせる。彼こそは実は最も忠実な神の礼拝者、すべての被造物は救われ神と合一する。純粋な完全なる心の浄化、祈りにおける賛美、神についての瞑想の中で精神を完全に沈潜させる。浄化の最終段階は、神の中に消滅すること（ファナー）である。始めから唯一、二つ存在するように見えても真に存在するのは一つだけ、神は無数の形をとって顕現する。神は一を欠いた一者、単一を欠いた単一者、神は自分自身で自己を見て認識する。すべての被造物は神の存在、この思想は必然的に人間性の神化、あるいは完全な一元論へ導く。神と一つであるという奥義が貴方に明かされる。貴方のすべての行為は神の行為であり、貴方のすべての属性は神の属性であり、貴方の本質は神の本質であることを貴方は悟る。神の国は貴方の内にある。『我と汝・対話』神と人間は存在を同じくした真の一対、原関係の担い手、神から人間に対してはミッションと命令、人間から神に向かっては見る聞くこと、そして神と人間の間では知識と愛という名で呼ばれている。『ヨハネ福音書』はこれを超えて更に先へ進み、神と人間の間のより先に、神なる存在そのものの中に根源的な関係を見る。神なる存在、内部の交わり、神なる存在との交わりでもある。神との交わりは同一化より密接な合一の状態を意味する。神が最終的には、すべてにおいてすべてとなる。神によって贖われた人生は神の中に取り込まれる。我らに耳を傾けたまえ、我らは貴方の本性に与る者、我らは貴方の神秘体。すべての恵みがそこから流れ出るキリストに向けられており、礼拝者と神との合一を示している。礼拝者は、教会すなわち神の身体の一構成員として神の本性を分有する。受肉とは霊と物質の結婚を意味し、この霊と物質の結婚において言葉は肉となる。諸々の福音の背後、内部、あるいはそれを超えたところに読み取るべき真の福音というものがある。食べ物と飲み物を自分自身の内に取り込む緊密な神秘的合一、キリスト教徒による聖体の拝領は究極の合一、「私の肉を食べ血を飲む者はいつも私の内におり私もまたいつもその人の内にいる」新約聖書の神秘主義は、超越的かつ内在的な神の愛に対する根本的な信仰に徹頭徹尾依拠している。まだ私たちが罪人であったとき、神は世を愛されたので、御息子を遣わされた。「私の内にとどまりなさい、私も貴方たちの内にいるから」という言葉で示された合一の為に人間を探し出すのは神の働きかけである。神の愛のゆえにキリスト教の神秘的合一は他者へと向かい愛の行為を生み出す。私たちが愛するのは、神が先ず私たちを愛してくださったからです。私たちが互いに愛し合うならば、神は私たちの内にとどまってくださいます。
