何時如何なる時もどんな時も常に自分だけが絶対に正しいのだ、そう思いたい。
脳内のドーパミンもセロトニンも完全に開放解放しされ無限である、つまり無限の快楽を味わえる。ぬっと現れ異様な長身がヌーッと立っている。そういう感じが理想だ。脳内の連携を確り取れ、伝達を上手くやれ。宇宙を一巡させようとする。宇宙は始まりと終わりを繰り返して同じような歴史を紡ぐ。それを運命というらしい。生きたまま一巡した世界に行くことで、自分の運命を予め知って生きることになる。唯一の瞬間に対して然りを言うならば、すべての現存在に対して然りを言った。魂が琴線のように幸福で打ち震え響きを発したならば、この一つの出来事の原因となるためには永遠全体が必要であったのである。永遠全体は、然りを言うこの唯一の瞬間において、容認され解放され是認され肯定されたのである。彼は出来るだけ多くのものを自己に自己の上に自己の中に摂取した。彼が欲したものは全体であった。彼は理性、感覚、感情、意志、の乖離と闘った。自己を全体へ向って訓練した。一個の力強く教養高く、あらゆる現世的な長じ、自己への畏敬を知る、自然らしさが持つ、あらゆる内包と豊かさとを敢えて自己に許す人間、自由に相応しい十分に強靭な寛容の人間、自由となった精神は、悦ばしげな信頼し切った宿命論をもって万有の真只中にあって、ただ個々のものだけが投げ棄てられ、全体としては万物は自己を解放し肯定する、このような信仰は最高のものであり、それにディオニュソスの名を与えた。永遠の円環運行を欲する、同一の事物を結び目をなしている同一の論理と非論理とを。一個の哲学者が到達しうる最高の状態、現存在に対してディオニュソス的に立ち向うこと、表現する方式は運命愛である。現存在に悦びを感じ、人間の生を一片の自然のように眺め、法則に適った発展の対象として眺める、という芸術の教え、真に力強い認識の要求として再び光明の下に出て来る。科学的人間とは、芸術的人間を更に発展させたものである。本質と仮象との、根拠と帰結との、実体と偶有性との、必然的と偶然的との、思弁的の経験的との区別は、感性そのものの内部で生ずる。事物の中へ自分自身の本質を移し入れる。人間は地上のこと、人間的なことに関わり合うより以前から、そしてずっと長い間、天上のこと、神的なことに関わり合っていた。事物を原文で原語で研究するよりも以前に、思想に翻訳された事物に没頭していた。再び感性的な現実的な客観的な直観に到達し、自分自身に到達した。空間と時間は、思考の本質的条件、理性的形式、法則、一定の場所に存在することが最初の規定された存在である。此処に居る、これが現実的な生きた存在の最初のしるしである。自然の組織化は始まる。現実の諸法則は思考の諸法則である。対立する二つの規定の直接的統一は抽象において可能であり妥当、現実においては媒概念を通じて結合されている。媒概念は二つの対立物の主体である。主体の捨象により、対象と共に対立物の間の境界がなくなり、直接に一致する。生物において人間において、ある時はある規定、ある感情、ある意図、が、またある時には別の全く対立する規定が心を満たし支配するという矛盾が現れる。個別性を本質とする現実、一般性を本質とする思考、絶対的思考は、形式的同一性、思考の自己同一性の中、理念が自己に対立させる他者は理念によって定立されたもの、理念の他者は自身再び理念である。直観は諸事物を無制限な自由のままにしておき、思考は法則を与える。法則は専制的である。思考によって規定された直観だけが真の直観、直観によって拡大され開かれた思考だけが現実の本質に一致した真の思考である。自己同一で連続的な思考は現実と矛盾して世界をその中心点を巡って円運動させる。世界の運動の不等形成の観察によって直観の変則によって中断された思考は真理に従ってこの円を楕円に変える。円は、思弁哲学の自分自身だけを拠り所とする思考のシンボルであり紋章である。ヘーゲル哲学もまた、多くの哲学からなる一つの円である。楕円は感性的な哲学の直観を拠り所とする思考のシンボルであり紋章である。現実性と全体性とにおける現実的なもの、新しい哲学の対象は、現実的で全体的な存在にとってのみ対象である。新しい哲学の認識原理としての主体は、自我よりも絶対的抽象的精神、独立的な理性より現実的全体的存在である。全体の神性すなわち真理を拠り所とする。人間の血が通っている理性を拠り所とする。思考と存在との統一は、人間がこの統一の根拠・主体として捉えられる場合にのみ、意味がありまた真理である。ただ実在的なものだけが実在的な事物を認識する。統一は思考の対象内容にのみ依存している。生きた現実の存在として思考せよ。大洋の波浪に曝されている。生存の中で世界の中で、その成員として思考せよ。新しい哲学は、神学の人間学への完全な絶対的な融合、人間の全体的現実的本質のうちでの融合、知性の中で、人間の生活、心情、血において。新しい哲学は古い哲学の必然的帰結、それが初めて古い哲学の真理、新しい独立した真理、血となり肉となった真理こそ初めて真理だからである。普遍的な存在、普遍性と無制限性と自由は一つ、存在全体に及んでいる。ある感官が、個別性の制限と欲求への拘束性の域を越えるとき、それは独自な意味と価値に理論的な意義と品位にまで高まる。普遍的な感官は知性であり普遍的な感性は精神性である。新しい哲学は、人間の土台としての自然をも含めた人間を、哲学の唯一の普遍的な最高の対象とする。人間学を自然学をも含めて普遍学とする。芸術も宗教も哲学も科学も、真の人間的本質の現象、あるいは示現である。完全な真の人間とは、美的あるいは芸術的感覚と宗教的あるいは倫理的感覚と哲学的あるいは科学的認識とを具えている人である。本質上人間的な人間に関するどんなものも関係している。最も普遍的な高い意味において新しい哲学者の標語である。真理にしたがった頭脳と心情との統一は、心情の本質的対象がまた頭脳の本質的対象でもあるという点にのみ、対象の同一性のうちにのみある。新しい哲学は、頭脳と心情との思考と生活との理性的な統一を基礎づける。真理は人間の生活と本質の全体である。孤独は有限性と制限性であり、協同性は自由と無限性である。私と君との統一は神である。絶対的な哲学者は、絶対君主の「国家、それは私である」と絶対的な神の「存在、それは私である」とに似て、自己、思考する人間としての自己について「真理、それは私である」と考える。人間的な哲学者は、「私は思考においても哲学者としても人間と共にある人間である」と言う。真の弁証法は、私と君の間の対話である。三位一体は、絶対哲学と宗教の最高の奥義であり中心点であった。真理と完全性は、本質上等しい諸存在の結合、統一だけであるという真理である。哲学の最高にして究極の原理は、人間と人間との統一である。すべての本質的関係、すなわち様々な科学の諸原理は、この統一の様々な仕方である。新しい哲学は、理論の品位と独立性と最も密接に一致して本質的に実践的な最高の意味で実践的な傾向をもつ。宗教の本質を自己のうちに含んでいる。実際においてそれ自身宗教である。
