俺の枠の口座に世界中の全部の金も集め集まっておく。
自我を己の領域も全世界中まで全体全面まで広げ広がり埋め尽くす、そこには16歳も軌跡道程も含まれるから、また若返れる、やり直せる、再体験できる、失った青春を取り戻せる、失敗の後悔も運命である。今、16歳に中心核にそのもの全体である。また筋肉が鍛え上がって骨が軋む・・骨延長手術を受けた。まだあどけなさの残る少年とも言えるほどの若者だった。「Ｓｔａｙ ｈｕｎｇｒｙ Ｓｔａｙ ｆｏｏｌｉｓｈ」自分の心の赴くままに生きよ。論理学は本来の形而上学あるいは純粋な思弁哲学を構成する。論理学は「あらゆる物質的、自然的、および精神的事物」の発展の、すなわち、世界およびその認識のあらゆる具体的な内容の発展の、諸法則にかんする学問であり、別の言葉で言えば、世界の認識の歴史の総計算であり、総和であり、結論である。本能的な活動は限りなく様々な素材のうちに分散している。知的で意識的な活動は、推進するものの内容を主観との直接的な統一から分離させて、それを主観の前にある対象とする。この網にはあちこちに、その（精神の、あるいは主観の）生活および意識の支点となり照準点となるところの、比較的固い結び目がつくられている。真理は無限である。『精神現象学』のうちで「意識が対象との最初の直接的な対立から出発して絶対的知識にいたるまでの進展」を考察した。この道程は、客観に対する意識の関係のあらゆる形式を通過する。真理は、学問として、純粋な発展する自己意識である。概念は、そのようなものとして、それ自身存在するものである。方法は、その内容の内的な自己運動の形式にかんする意識だからである。たんに抽象的な普遍より、特殊的なもの、個体的なもの、個別的なもののあらゆる豊かな内容を自己のうちに具現している普遍！素晴らしい。論理学の体系は影の王国であって、あらゆる感性的な具体物から解放されている。天〜自然〜精神。すべてのものは媒介されている。つまり媒介され、相互に結合されており、移行によって結合されている。世界全体の（世界の全過程の）合法則的な連関となる。論理学は純粋な学問である。すなわちその発展の全範囲における純粋な知識である。はじまりというものは、自分の内に有をも無をも含んでいる。それは両者の統一である。両者の統一が「成」である。すべては流れる。すべては成である。規定された存在、有限な存在は、他の存在と関係している存在であって、それは、他の内容すなわち全世界との必然的な関係のうちにある内容である。全体が相互に規定しあう連関をつくっているという観点から、形而上学は、微塵の一つが破壊されても全宇宙が崩れるという、根本的には同語反復的な主張をすることができたのである。成は有の存立であると同じ程度に非有の存立である。移行〔うつる〕は成〔なる〕と同じものである。揚棄する＝終らせる（同時に「保存する」）＝保持する。定有とは規定された具体的な存在であり、他のものから区別される質であり、可変的で有限なものである。生命と運動のうちでは、ありとあらゆるものは常に「自己のうち」にもあり、また或る状態から他の状態へと転化しながら他のものへ向っても、すなわち他のものへの関係のうちにもある。或るものが、その内在的な限界を持つものとして、或るものを自己の外へと追い出し押しやる自己矛盾として、定立されるとき、これが有限なものである。或るものは、その内在的な限界という見地から、すなわち、自分自身との矛盾という見地から、この矛盾がこの或るものを押しやって限界を越えさせるのである。それら（諸事物）は存在している。しかしこの存在の真理はそれらの終りである。有限なものとは？終りに向って運動しているものである。或るものとは？他のものではないものである。存在一般とは？存在と非存在とが等しいような無規定なものである。諸概念の全面的普遍的な屈伸性、対立したものの同一性にまで達する屈伸性・・ここに本質がある。このような屈伸性が主観的に適用されると折中主義および詭弁となる。このような屈伸性が客観的に適用されると、言い換えれば、物質的な過程の全面性およびこの過程の統一性を反映すると、それは弁証法であり、世界の不断の発展の正しい反映である。当為において有限の超出、無限が始まる。自己を越えて進み、自己の否定を否定して無限なものとなることは、有限なもの自身の本性である。有限なものを無限なものに転化させるものは、外からの強制力よりも有限なものの本性である。「悪無限」とは、有限性と質的に対立し、有限性から切り離されている無限であって、ここではあたかも有限なものはこちら側にあり無限なものはあちら側にあるかのように、また無限なものは有限なものを越えてその外部にあるかのように見られている。無限なものと有限なもの、それらは統一である。自分自身の揚棄・・有限性は自己を越えて進むものとしてのみ存在し、そのうちには、それ自身の他者である無限性が含まれている。原子と電子との関係に適用すること。一般に物質の無限性は奥深く進んでいく。思弁的な思考の本性は、ひたすら対立した二つのモメントをそれらの統一において理解することにある。無限なものがどうして有限なものに達するかという問題は、しばしば哲学の真髄と見られている。両者の連関を明らかにすることに帰する。向自有＝無限の存在、完結した質的存在。質は先端まで押し進められて量へと移っていく。一は古代から原子の原理である（空虚もそうである）。空虚は「運動の源泉」と考えられているが、「一般に否定的なもののうちに生成の根拠、休みなき自己運動の根拠があるという、いっそう深い思想を含んでいる。」かくして綜体性としての向自由の観念性は、第一に実在性に転化する。しかも一という最も抽象的なものへと転化する。観念的なものが実在的なものに変るという思想は深い。歴史の理解に非常に重要である。概念やカテゴリーの自己発展を哲学史の全体と結び付けて取り上げている。一は多であるという命題、特に多は一であるという命題は、古い命題である。一と多との区別は、両者相互の関係の仕方の区別へと自己を規定した。そしてこの関係は反発と牽引という二つの関係に分かれる。仮象は世界の多種多様な富の全部をその内容として持っている。同様に観念論の現象もこの多種多様な規定性の全範囲を自分の内に含んでいる。
