もっとも深淵なるものを思索せる者、もっとも溌剌とせるものを愛し、広く世界をきわめし者、高き徳を解す。かくて賢しき人々は、しばしば、ついには美しきものの前に頭をたれる。また口座に無限の無限大∞の莫大な金を振り込んでおくと同時に、持ち株も底上げし続け倍以上に高騰暴騰する。筋肉武装！爆肉鋼体！！世界も枠もパソコンも直す直る治す治る。部屋を片付けて蟻を始末しておく。中心核に成って軌跡道程も手に入れ含め若返り、生涯の内に取り逃がした恋愛の全てを取り戻す好きな好みの女を抱き捲る。時代を遡って行き軌跡道程を含めていき16才に辿り着き16歳丹田から広がる中心核枠である。精神の王国は個人的なものにおいても、理念的なもの、芸術的なものにおいても、聖書の言葉にいわれているように「この世のものではなく」自然とその寵児の王国に対して永遠に対立している。自然の寵児の本質と貴族性とは、実際徹頭徹尾「この世のもの」、肉体的・異教的な世界のものです。そこにこそ彼らのリアリズムが存在する。ロマンを持て。世界と語れ。一人ひとりが自由闊達に構想し、挑戦と創造を繰り返す。俺も枠さえも非常に優秀な一つ一つの部分の細胞の集まり集結合した梁山泊だ。その原点となるロマンを持ち続ける。貪欲に知識を取り込んでいく。我々多数の者が本当に多数になって一致団結するにある。我々がこれをなしさえすれば永遠の審判に対しても安全だというものだ。もしも彼等が永遠の世界に到って始めて個体となるものであるとしたら。だが彼等は神の前にいつも個体であったし、現にまたそうである。神は人間の隅から隅までを見透かしている。良心との関係がこれを示している。良心の助けによって、審判の報告が直ちにあらゆる罪に同伴するように仕組が出来上がっている、そしてその報告を書かなければならないのは罪人自身である。もっとも報告は秘密のインキで書かれるので、それは永遠の世界において光にかざされるときに、すなわち永遠が良心を吟味するときに、始めて完全に明瞭になるのである。一切が、人間の口から出た最も無意味な言葉までもすべて調査が出来上がっているのである。永遠に到る人生の旅路である。罪の宥しに絶望することが躓きである。躓きとは罪の度の強まったものである。我々が罪を人間と神との間の戦いとして把捉するとき、罪の度の強まりが明瞭に示されてくる、この場合戦術が変わって防御から攻撃に移るときが、罪の度の強まったときである。絶望は罪である、ここでは戦いが逃避的になされる。ついで自己の罪に関する絶望がやってくる、ここでは戦いがもう一度逃避的に、すなわち自分の退却地点にたてこもりながら、しかも一歩一歩退却しながらなされる。いまや戦術が変えられる、罪は絶えず自己自身のうちに深まっていって神から遠ざかりながら、それによってかえって罪は別の意味では神に近づいていって絶えず決定的に自己自身となるのである。罪の宥しに絶望することは神の慈愛に対する一定の身構えである。先行のあらゆる段階においては罪は何といっても或る程度まで敵手に対して向こうが強いことを認めている。だがいまや罪は攻撃を始めるのである。聖霊に逆らう罪は躓きの積極的な形態である。キリスト教の教説は神＝人の、すなわち神と人間との間の親近性の教説である。人間があんなにも神の間近にあるということ、人間がキリストにおいてあのように近く神に近づくことができ、近づくことを許され、また近づくべきでもあるということは、神による狂気の思いつきである。肉となれる神は、もしも人間が無造作に神の同輩になれるものとしたら、シェークスピアのヘンリー王と好一対であろう。神と人間とはその間に無限の質的相違の存する二つの質である。この相違を看過するあらゆる教説は人間的にいえば狂気であり、神的に評すれば涜神である。異教においては人間は神を人間となした。（人＝神）、キリスト教においては神は自己を人間となす（神＝人）。けれども彼のこの慈悲深い恩寵の無限の愛のなかで神は一つの条件を持ち出す、彼はそうせざるをえないのでる。このことが実にキリストの悲哀である。内面性の歴史的絵画の上にはかの暗い可能性が漂っている。おお、我が友よ、お前は一体この人生において何をなそうとしたというのか！お前の頭脳を絞れ、一切の蔽いを払いのけよ、お前の胸の中の感情の最内奥をさらけ出せ、そしてお前をお前が読んでいるものから引き離すところの一切の障壁を取り壊せ、おそらくかかる宗教的矛盾は神々の言葉によってのみ表現せられうる。人間は語ることを人間から学ぶのであり、神々からは沈黙を教えられるのである。愛の故に神は人間となる、神は語る、「見よ、ここに人間の真の姿がある、我を見よ、そして人間の何たるかを悟れ、おおされど、汝心せよ、我は同時に神である、我に躓かぬ者は幸いなるかな。」神は人間として卑しい下僕の姿をとる。神が誕生して人間となった。人生の一大事である。各自自らを省みるべし。自己が自己自身に関係しつつ自己自身であろうと欲するに際して、自己は自己を措定した力のなかに自覚的に自己自身を基礎づける。同時に信仰の定義でもある。神を愛する者、即ち御旨によって召されたる者の為には、凡てのこと相働きて益となるを我らは知る。全体を代表するないし全体に相当する。神は凡ての事をなし得るなり。元始に神天地を創り給えり。我天国の鍵を汝に与えん、凡そ汝が地に縛ぐ所は天にても縛ぎ、地にて解く所は天にても解くなり。ゆけ、汝の信ずる如く汝になれ。我らの諸々の罪を海の底に投げ沈め給わん。我汝を我が口より吐き出さん。彼は悪鬼によりて悪鬼を逐い出すなり。彼の生涯は内面的には複雑多岐をきわめ、ただひとえに彼自身の魂の問題をめぐっての苦闘の歴史であった。人もし全世界をうとも、おのが魂を失わば如何にせんや。狂気と天才との必然的な連関に触れ、天才が神の賜物だとすれば狂気はそれに添えられた神の嫉妬だと語る。全宇宙を包み込む哲学体系、世界史に関するその壮大な歴史哲学的展望、自分というこのかけがえのない単独者、例外者の立場は、与えられた有的普遍のあらゆる形態の外に投げ出されているところの、ないしはそれを突き抜けて出るところの虚無的実存の立場である。そこでは与えられた有的統一の悉くが破れ果てて、その統一を構成していた弁証法的な諸契機が相反する両極へと分裂し、虚無的実存の主体はこれら相反する両極の間をあたかもレトーのように一極から他極へと果てしなく流転せしめるのである。例外者的実存の主体は、究極的絶対的な統一の場面を求めて、与えられる有的普遍の立場ないしはロゴス的普遍の立場をどこまでも突き抜けて深まる。御前なら、お前なら必ず勝てる出来る知り理解ｵ認識し把握し尽くせる。ただただ自我の意識の拡張拡大にのみ突っ走って来た人生だったけど、もう好い加減に御終いだ終り終らせ終結しさせされるときだ。枠への拘り執着から離れろ！！枠への拘り執着を捨て棄てろ！！中心核に拘れ執着しろ！！全部の意識も中心核に集めろ集まれ集中集合集結しろ！！この胸にある何もかも全部を中心核に！！胸の中にある何もかも全部中心核！！
