気力体力共に尽き果てた。
生涯
ニーチェは1844年にドイツ・ザクセン地方の小村レッケンにルター派の裕福な牧師の子として生まれた。5歳の時、頭の怪我が原因で父親が早世。それを追うように2歳の弟ヨーゼフが病死。これを機に、ニーチェ一家はレッケンを去り、近郊のナウムブルクへ転居する。ニーチェは、転居先のドイツ屈指の名門校プフォルタ学院に特待生として入学。ここで古典教育・哲学・文学等を全寮制・個別指導で鍛えあげられ、模範的な成績を残す。その後、ボン大学からライプチヒ大学を経て、古典文献学の権威フリードリヒ・リッチュルと出会う。彼のもとで文献学を修得。リッチュルからも絶大な信頼を得ていた。

ライプチヒ大学在学中、彼の思想を形成する上で重要な出会いが、他にも2つあった。ひとつは、古本屋の離れに下宿していたニーチェが、その店でショーペンハウエルの『意志と表象としての世界』を偶然購入し、この書の虜となったこと。もうひとつは、リッチュルの紹介でライプチヒ滞在中の音楽家リヒャルト・ヴァーグナーと面識を得ることができたことである。

その後、24歳の若さでバーゼル大学の古代ギリシアを専門とする古典文献学の教授となった。(就任当時の講演は「ホメロスと古典文献学」。)同大学で古代ギリシアの文化史を講じていたヤーコプ・ブルクハルトとの親交が始まる。自分にも学生にも厳しい講義のスタイルは当時話題となった。本人は、哲学の担当を希望しつづけていたが受け入れられなかった。激しい頭痛を伴う病によって体調を崩して10年で大学の教壇を去り、その後執筆活動に専念する。時期的にニーチェの哲学的著作は、大学教壇を去った後に書かれたものが大半である。


ニーチェの著作は存命中には注目されず、渾身の作品『ツァラトゥストラはかく語りき』も1つの文学作品としてしか受け取られなかった。（日本の和辻哲郎は、当時から哲学者として彼を早くから発見していた数少ない1人。）




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リヒャルト・ヴァーグナーとニーチェ
 
ヴァーグナーニーチェは、一貫して音楽に強い関心をもっていた。処女作『悲劇の誕生』は思弁的ではあるが、一面、古代ギリシアの詩の歴史的・展開を音楽と統一的な観点から語る試みでもあった。初期ニーチェは、己の哲学の現代における体現を、ヴァーグナーのうちに見出した。ドイツの近世美的思想には、美術史家ヴィンケルマン以来、古代ギリシアを宗教共同体に基づいて美的かつ政治的な高度な達成をなした理想的世界として構想するひとつの伝統があった。

ヴァーグナーもまたこの系譜に属している。ニーチェは『悲劇の誕生』や『バイロイトにおけるヴァーグナー』できわめて好意的にヴァーグナーをとりあげ、ヴァーグナー自身を狂喜させるほどであった。ニーチェは、何度もすすんでヴァーグナーの邸宅に足を運び(23回も運んだことが記録されている)、31才という年齢差を越えて、親交を深めた。しかしニーチェから見れば、ヴァーグナーは大衆迎合的な低俗さを増した音楽を演ずるようになった。

ニーチェはヴァーグナーに失望し、ヴァーグナー訪問も次第に形式的なものになっていった。『ニーベルングの指環』を見て自身と著しい隔たりを感じ、これがきっかけで「人間的な、あまりにも人間的な」の構想が生まれる。バイロイト祝祭劇場で『パルジファル』を演じるヴァーグナーを見たニーチェは、道徳や宗教といった既成概念を突き破り、生そのものへと突き動かすかつてのヴァーグナーでないことを確信。

失望のあまり上演の途中で抜け出し、ついにヴァーグナーから離れていった。ヴァーグナーとの決別の意味をこめて書いたのが『人間的な、あまりにも人間的な』。これはヴァーグナーから公然と反論された。これでもって、両者は決別しあうことはなかった。しかし、晩年狂気の中にあったニーチェは、ヴァーグナーとの話を好んでし、最後に必ず「私はヴァーグナーを愛していた」と付け加えていたという。

晩年のニーチェは、梅毒に侵されながらも晩年の大著である『権力への意志』を精力的に執筆し続けた。しかし著作を完成させられないまま1889年初めにトリノ、カルロ・アルベルト広場にて発狂し（トリノの悲劇）、それ以後、母親と仲の悪かった妹エリーザベト・フェルスター＝ニーチェにほぼ廃人の状態で世話になることになった。そして1900年に狂気から目覚めることなく55歳で死去。遺体は故郷のレッケンに埋葬された。

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思想
 
サーベルに軍服姿のニーチェ。普墺戦争の頃に篤志兵として従軍後、強度の近視と怪我のため除隊となったときに写した写真。(1868年)ソクラテス以前も含むギリシア哲学やスピノザやショーペンハウアーなどから強く影響を受け、その幅広い読書に支えられた鋭い批評眼で西洋文明を革新的に解釈した。実存主義の先駆者、または生の哲学の哲学者とされる。近代の終焉を告げる思想家ともされる。

神、真理、理性、価値、権力、自我などの既存の概念を逆説とも思える強靭な論理で解釈しなおし、デカダンス、ニヒリズム、ルサンチマン、超人、永劫回帰などの独自の概念によって新たな思想を生みだした。

その中には、有名な永劫回帰（永遠回帰）説がある。古代ギリシアの回帰的時間概念を借用して、世界は何か目標に向かって動くことはなく、現在と同じ世界を何度も繰り返すという世界観をさす。これは、生存することの不快や苦悩を来世の解決に委ねてしまうクリスチャニズムの悪癖を否定し、無限に繰り返し、意味のない、どのような人生であっても無限に繰り返し生き抜くという超人思想につながる概念である。

「神は死んだ」と宣し、西洋文明が始まって以来、哲学・道徳・科学を背後で支え続けた思想の死を告げた。

それまで世界や理性を探求するだけであった哲学を改革し、現にここで生きている人間それ自身の探求に切り替えた。自己との社会・世界・超越者との関係について考察し、人間は理性的生物でなく、恨みという負の感情ルサンチマンによって突き動かされていること、そのルサンチマンこそが苦悩や矮小化の原因であり、それを超越した超人をめざすことによって解決されるべきとした。

その思想はナチスのイデオロギーに利用されたが、多くのニーチェ主義者が喝破していたように、それはニーチェ哲学の曲解、通俗化でしかなかった。

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著作
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『悲劇の誕生』とその悲劇的評価
初期の著作には『音楽の精神からのギリシア悲劇の誕生』（これは、初版時のみタイトル。新版以降は、『悲劇の誕生、あるいはギリシア精神とペシミズム』）がある。この作品には執筆当時ニーチェが深い影響下にあった音楽家|リヒャルト・ヴァーグナーの作品への賛美が読み取られる。この作品は哲学の著作ではなく、古典文献学の作品として書かれたものである。

ニーチェにしてみれば、厭世的と見られていた当時の古典ギリシア時代の常識を覆し、アポロン的、ディオニュソス的という斬新な概念を導入して、当時の世界観を説いた野心作であった。しかし、このような独断的な内容は、厳密に古典文献を精読していく、当時の古典文献学の手法からすればこれは暴挙に近いものだった。そのため、周囲からは学問的厳密さに欠く独断的ものとして受け取られ、ワーグナーや友人のローデを除
