嘗てあったすべては全体の中にあり時空間的に連続している。俺も枠も16歳からやり直したい、軌跡道程の再体験追体験だ。また昔のように16歳のように、また元通り、いや元以上だ。概念のうちに含まれていて概念にひとしく、また個別的な外的現実の要求を自己のうちに含んでいる規定性が善である。善が絶対的なものであるという価値をもってあらわれるのは、それが概念の自分自身のうちにおける全体性であり、同時に自由な統一性および主観性の形式のうちにある客観的なものだからである。実現された善が善であるのは、善が既に主観目的すなわち善の理念のうちに含まれていりからであって、実現はそれに外的な方法を与えるのである。善は客観的世界を前提としており、このうちに善の主観性と有限性がある。そして、この世界は善とは別なものとしてそれ自身の道を歩むから、客観的世界の諸側面によって善事の実現さえも障害を受けるし、不可能にさらされさえする。目的の実現に際して障害に出くわす。主観性の国、透明な思想の純粋な空間、客観性の国、多様な現実性の闇。認識は、自分の前に、主観的な意見とは独立に存在する現実としての真に存在するものを見出す。客観的概念の活動によって外的現実は変化させられ、これとともに外的現実の規定は揚棄される。まさにこのことによって外的現実から、たんに現象的な実在性、外部から規定されうるという性質、および非実質性が取り去られ、これとともにこの現実は即自かつ対自的に存在するものとして定立される。人間は客観的な世界像をつくりあげてから、その活動によって外的現実を変え、その規定性を壊し、このようにしてこの現実性から仮象、外面性、および非実質性という性質を取り去り、それを即自かつ対自的に存在するもの（＝客観的な真理）にする。行動の成果は主観的認識の検証であり、真に存在する客観性の基準である。かくしてこの結果のうちで認識が回復され、しかも実践的理念と統一されている。また現存する現実は同時に実現された絶対の目的として規定されている。この現実は、その内的根拠および真の存立が概念であるところの客観的世界として規定されている。絶対的理念は、既に明らかになったように、理論的理念と実践的理念との統一である。絶対的な認識、この分析的であるとともに綜合的でもある判断のモメント、これによって最初の普遍者は自分自身のうちから自分を自分の他者として規定するのである。対立物の総和および統一としての事物。これらの対立物、矛盾した諸傾向、等々の闘争、あるいは展開。分析と綜合との合一、個々の部分への分解とこれら諸部分の全体、総計。各々の物（現象、等々）の諸関係は多種多様であり全般的であり普遍的である。各々の物（現象、過程、等々）はあらゆるものと結びついている。対立物の統一も、あらゆる規定、あらゆる質、あらゆる特徴、あらゆる側面、あらゆる性質は、それぞれの他者（その対立物？）へ移行する。新しい諸側面、諸関係、等々が明らかにされてくる無限の過程。物、現象、過程、等々に関する人間の認識が、現象から本質へ、浅い本質から深い本質へと深まっていく無限の過程。並存から因果関係へ、そして連関と相互依存のある形式から他のより深い普遍的な形式へ。より低い段階の一定の特徴、性質、等々がより高い段階で繰返されること、および、外観上、古いものへの復帰（否定の否定）。内容の形式に対する闘争およびその逆。形式の廃棄、内容の改造。量の質への移行およびその逆。簡単に言えば、弁証法は、対立物の統一にかんする学説と定義することができる。例えば有限なものと無限なもの、個別的なものと普遍的なものというような固定的なものと考えられているすべての対立は、概念はそれ自身その本性によって移行である。普遍的な最初のものは、その真の姿において考察されるとき、自分自身の他者としてあらわれるのである。この他者は媒介されたものとして規定されており、最初のものの規定を自己のうちに含んでいる。最初のものはしたがって本質的にこの他者のうちに保存されている。肯定的なものをその否定者のうちで、前提の内容を結果のうちで確保すること、これが理性的認識において最も重要なことである。このような要求が絶対の真理であり必然であるということを納得するには、ごく簡単な反省をしてみればいいのであって、それを証明する実例は、この論理学全体である。例えば、有限なものは無限である、一は多である、個別的なものは普遍的なものである。 
