多くの円からなる一つの巨大な円である。
中心核枠と主人公として全世界中を縦横無尽に暴れ遊び飛び回る。何時如何なる時もどんな時も、体外に出てからは、目指すべきは、個より全、個体より全体だ。今となっては全体全面を軌跡道程を世界を一気一挙一度に同時に感じられる、だから本人の超個性的で特殊な感性による感動も同時に押し寄せ来る。人間としても全部を満足させ幸福にしてくれる。生まれる前から生まれ産まれてから16歳から今迄も今に同時だ。意識は如実に過去に軌跡道程に浸透する、だから軌跡道程の中の好みの女性も今から抱ける。これからあれを抱く。あの時16歳で最高の状態になる少し前に頭が締め付けられるような気がした、蛋白質多い肉を食べなきゃ、それで父親に「ねー、ねー、今日焼き肉屋行かない？」と聞いたりした。お父さんのズボンを勝手に履いて父親が怒鳴っていたのを覚えている。その日に焼き肉屋で父親が「佐保子ブスだから外出せなーい」なんて言って大笑いしていた（自分の娘にブスだから外出せないとは？）、母親は「うーそーよ、うーそ、嘘」それでまた大笑い、あの頃は良かった、焼き肉東府屋の換気扇を勝手に回したりしていた、それから一気に最高の状態に駆け上がり、そして一気に突き落とされた、壊し壊された、加速度的に転がり落ちて行った。この家族で焼き肉屋に行ってた頃は幸せだった。数も来ていたよね。母親は焼き肉屋に後から来たりする。俺は頭も顔も良く背も高く筋骨肉逞しく若きプリンスだった。「佐保子ー、風呂やってくれー、やりゃーいいでしょ、お前らもう一度言ってみろー」この事でも閉め切った部屋で一人大笑いしていた。カルシウムの過剰摂取で頭蓋骨から脳を締め付け主要大部分が体外に出て行ってしまってから地獄が始まった、蛋白質大量摂取して脳を広げなきゃ頭蓋骨を押し上げ広げなきゃ・・肉や鰹節を沢山食べたりした。九州で歩き過ぎ足腰の負担を沢山掛けた、これも大ダメージだった。あの焼き肉屋に行こうとした日も今だ。数が寄生虫？これだけが一貫性の外だ。あの時中学卒業の二日前に津田伸太郎に「西教室帰ろー、西森瞬に頼むのはやめといた方がいいよ、何てったって森瞬ねー、ブレザーにウンコ付けた、こーのブレザーうんこブレザーなんだよ、このブレザー、うんこブレザー」この言葉で顔が一気に真っ青に顔面蒼白になり卒業式にその事を言われるのが怖くて他の皆と出られなかった事は後々までショックだった。バレー部の西山貴信にも宮沢要にも大和潤にも聞かれたのはショックだった。三木聡子も大きな後悔になった。数にその事を多少どうこう知られ言われたかもと恐れていた。そう、つまりあの時も今だ。体外に出し出た主要大部分に軌跡道程も肉付けしされた、これから枠は中心核、過去の自分から未来の自分に成る。貴方は確かに物凄く強くなった、それでも個体としての16歳に一つになるべきだ。16歳も軌跡道程も存在した存在している、だから一つになれる筈、行く先に対象に相手になることが目標だ。俺の枠の積み重ね上げた軌跡道程も広げ広がり続けた軌跡道程も広げ広がり続けた領域も枠の俺だ。神学の秘密は人間学、彼岸へ遠ざけていた神的本質を此岸へ移し替える。生き生きと描き出し規定し実現する。スピノザは現代の思弁哲学の本来の創始者であり、シェリングはその再興者、ヘーゲルはその完成者である。汎神論は神学の必然的帰結、首尾一貫した神学である。無神論は汎神論の必然的帰結、首尾一貫した汎神論である。キリスト教は、多神論と一神論との矛盾である。汎神論は、多神論を述語とする一神論である。汎神論は、多神論の多くの独立した存在を一つの独立した存在の多くの述語、属性としている。スピノザは、多くの思考する存在としての思考と多くの延長ある存在の総体としての物質を、一つの実体、すなわち神の属性とした。神は思考するものであり延長するものである。ヘーゲルは自己活動、自己区別の力、自己意識を実体の属性とした。ヘーゲルの「神についての意識は、神の自己意識である」という、逆説的な命題は「延長あるいは物質は実体の一属性である」というスピノザの逆説的な命題と同じ基礎の上に立っていて、それは、自己意識が実体あるいは神の属性の一つであり、神は自我であるという意味を持つ。物質は実体の属性である、物質が実体的な神的本質である、意識は神的存在である、と言った。スピノザによれば、実体の属性あるいは述語が絶対者そのものであるように、ヘーゲルにとってもまた、絶対者すなわち主語一般の述語は主語そのものである。絶対者は、ヘーゲルによれば、有、本質、概念（精神、自己意識）である。思弁哲学の絶対者あるいは無限者は、規定されたものの捨象、行為として定立された世界以前の無である。ヘーゲルの論理学は、理性的具体的にされた神学、論理学とされた神学である。神学の神が一切の実在性、一切の規定性、一切の有限性の観念的または抽象的な総括であるように、ヘーゲル論理学もまたそう？地上にある一切のものは、神学の天上で再び見出される。自然の中にある一切のもの、質、量、限度、本質、化学性、機械性、有機性もまた、神的論理学の天上に見出される。一切のものを神学において二度もつ。一度は抽象的に、次には具体的に。一切のものをヘーゲル哲学において二度もつ。一度は論理学の対象として、次にはまた自然哲学および精神哲学の対象として。神学の本質は、人間の外におかれた人間の超越的な本質である。ヘーゲルの論理学の本質は、超越的な思考、人間の外におかれた人間の思考である。神学が人間を分裂させかつ疎外し、それからまたこの疎外された本質を再び人間と同一視するように、ヘーゲルは自然および人間の単一で自己同一な本質を多様化し寸断し、それからまたこの無理に分離されたものを再び無理矢理に媒介する。形而上学は秘教的な心理学である。あらゆる全分野を縦横断体系的に理解する。物を内から見る考える、物を以て物を見る。物と自分とが一つになって物の内側から物を見る、その物が生きて来る。更に深めると、その知の働き、観察、思索、それが直ちに自分を動かし、物を通じて自分の知となり魂となって自己を躍進させる。創建智、更に深く自分を把握し躍進せしめるまで徹した学問の仕方、頭の働き、解脱智という言葉に結びつけて聖智という。自分と対象とが一つになって、それが自分というものを更に高め飛躍させて行く。愚かな卑しい自分というものを解脱向上させてゆく。ここに学問の神聖にして至れる意味がある。如何なる一念の微といえども必ず永遠に存する。偉大なる精神、偉大なる生命の流れの中に存している。精神作用が個体を超越して、偉大なる生命、偉大なる精神の流れ、作用の中に溶け込んでいったならば、それが何処かで、夢を見る、記憶する、思い出すという心理と同じ作用で、千年百年昔のことも復活してくる筈だ。自我、今日を脱却して、直ちに永遠、時間、空間の枠を超越して、三千年の昔に融合し、所謂永遠の生命、永遠の精神の中に生きる。
