大きな存在に包み込まれるように包み込む。
自然物には常に同一の固定した性格があって、すべての変化もそこに還元されるが、人間には現実に変化していく能力があり、それも、よりよいものへの変化であって完全なものを目指す衝動があると思える。発展の原理は内的な方向性が前提としてもとから存在し、それがおもてにあらわれるという形をとります。この形式的な方向性を決定するのが、世界史を活動の舞台とし、そこを自分の本領とし自己実現の場とする精神である。精神は自ら絶対的に方向を決定し偶然を利用し支配するものです。自然の有機物にも発展がある。有機物は内部にある原理（最初は胚種という形で存在する単純な本質）から出発して様々な組織や器官へと分かれ他の事物とも関係して持続的な変化の過程を生き再び元に戻って有機物の原理とその形態を保存する。有機物は自己を生産し潜在的な可能性を形にあらわす。精神も同様に自ら形をつくっていき潜在的なものを顕在化させるものです。精神の発展は、その方向性を実現にうつすにあたって意識と意思が介入する。意識や意思は最初は直接の自然の生命のうちに埋没しているし、その対象や目的も最初は自然の力としてあらわれます。そのその性質に生命を吹き込むのが精神であるところから、それは無限の要求と力と富をもつものとなり、かくて精神は自分の内部で自分と対立します。精神の実現を妨害する真の敵は精神自身であって精神は自己を克服しなければならない。自然にあっては平穏な産出であった発展が、精神においては自己に対する厳しく果てしない戦いとなる。精神の狙いは自分の概念を実現することにあるが、自己を疎外することに誇りと満足を感じる。精神のこのような発展は自分と対決する厳しく苛立たしい労働です。しかもそれは、たんに形式的な自己発展というにとどまらず一定の内容をもった目的の実現です。この目的ははじめから確定されていて、それが精神であり自由を本質ないし概念とする精神です。自由な精神こそ歴史の根本的対象であり、それゆえにまた発展の指導原理でもあり、それが発展に意味と価値を与え、逆にまた、歴史上の事実はこの対象から生じ、この対象と関係することによってのみ意味と内実を獲得する。世界史は自由の意識を内容とする原理の段階的発展として示されます。第一段階は精神が自然の在り方に埋没した状態であり、第二段階はそこを抜け出して自由を意識した状態であり、第三段階は今だ特殊な状態にある自由から純粋に普遍的な自由へと上昇し精神の本質が自己意識および自己感情として捉えられた状態です。精神は無限の可能性から出発し、絶対の内容はいまだ潜在的な目的ないし目標にとどまる。目的ないし目標が達成されるには結末を待ち、そこではじめて目的ないし目標は現実のものとなる。現実の歩みは不完全なものから完全なものへの前進と見えるが、不完全なものは完全なものを萌芽ないし衝動として含む。反省の立場にたっていえば、少なくとも可能性が現実に生じるべきものを示唆しているとはいえるので、それはアリストテレスのいう可能態（力、能力）のごときものです。不完全なものが内部に完全なものを含むのは矛盾であって、その矛盾は現に存在する矛盾であるとともに破壊され解体される矛盾でなければならない。矛盾は、精神生活の内部では自然や感覚や自己疎外の外皮を突き破り意識の光へ自己自身へ至ろうとする精神生活の内面的衝動ないし鼓動として存在する。感情や自然な愛の領域をこえて精神の統一が進み人格の意識が生み出されたとき、暗く頑固な歴史の核が漸く現れる。自然も精神も明瞭かつ透明になるには、自己を意識していく意思の長期にわたる広範な教養形成の活動が必要なのです。意識だけが明瞭なものであり、神その他の啓示を受け取ることが出来るものであって、しかも、神その他が絶対普遍の真理として啓示されるのは、意識が思考を重ねる力を持つ場合に限られる。世界史とは、以前の定義に従えば、精神が自らを自由だと意識する、その自由の意識の発展過程と、その意識が現実に生み出すものの発展過程を示すものです。発展は幾つかの段階を踏んで行われ、事柄の概念に即して、自由が細かく区分されます。概念というものは、その論理的性質、その弁証法的性質からして、自分を定義し、その定義を自分の内容とし更にその内容を破棄し破壊することによって積極的な更に豊かで具体的な内容を獲得する、そういったものです。こうした必然的な歩みや、純粋で抽象的な概念内容の必然的系列は論理学の認識するところです。歴史においては、その原理は精神の在り方として示されるので、それを示すのが一つ一つの民族精神です。民族精神の内には民族の意識と意思、その現実の全側面が具体的にあらわれます。世界史の全体が考察の対象となるとき、本質的なものとは自由の意識であり意識の発展のなかでの自由の在り方です。世界史は道徳の本領たる、私的な心情、個人の良心、個々人の意思と行動といった場面よりも高い次元を動く。精神の絶対的な究極的目的が要求し成就すること、若しくは神の摂理が行うことは、個人の道徳性にかかわる義務や責任能力や要求をこえたものなのです。世界史的個人といわれるような大人物たちの行為は、内面的な意味で正当化されるばかりでなく、世界の流れという立場からも正当化されます。天才、才能、芸術、学問といった一般観念があらわれるところでは、精神形成のどの段階でも形式的な教養が栄え立派な花を咲かせる可能性があり、そうなるのが必然でもあって、精神はやがて国家を形成するにいたり、国家という文明の基礎の上に、分析思考や法律やあらゆる一般観念を生み出すからです。国家生活のうちに形式的な教養を生み出す必然の力があり、こうして、学問や形の整った詩や芸術が生まれる。言語はそれ自体で高度な知的形成を行う。自由は自覚されるものであり思考と同一の根を持つ。人間が自由を意識するということは、個人が自分を人格として捉えること、すなわち、個でありながら内部に普遍性をもち、あらゆる特殊なものを捨象し放棄できる、無限の存在として自己を捉えることです。具体的な民族精神こそ私たちの明確な認識対象、民族のあらゆる行為や活動のうちに浮かび上がるのが民族精神であり、民族が自己を実現し自己を享受し自己を捉えた姿が民族精神です。民族精神にとっては自己を生み出すことが課題なのです。精神にとっての最高の働きとは、自己を知り自己を直観し思考へと齎すことです。精神はそのようにして自己を成就し、この成就は同時に没落であり、他の精神、他の世界史的民族、世界史の他の時代の登場です。この没落と交替が一つ繋がりの全体をつくり出し、それが世界史の概念をなす。自然という形を取った理念が空間の中で展開していくとすれば、世界史とは精神が時間の中で展開していくものです。世界史を一渡り眺めてみると、そこには目も眩むような色とりどりの変化や行為、無限に多様な形を持つ民族や国家や個人が次から次へと登場します。
