字は散々書き込み入れ印刷して来たから、自分としては字に委ね任せ委任するだけだ。
時空間に充満遍満し、更に時空間を飛び出し超越して全体と成る。昔（１６才）と違って頭のキャパシティ（許容量）も能力も全然足りん、世界全体が己の領域だと脳だと心だと身体だと自覚している筈だが？駄目だ、今に至っても如何しても頭蓋骨と鎖骨に圧迫されてしまう・・頭蓋鎖骨問題からさえ解放されれば・・これも中身を絞り搾り取出し領域を広げ広がる為だ。マルサントレードとイートレード証券の口座に無限の∞の莫大な大金を振り込んでおけ！！彼は自分がいかにして救われるであろうかというようなことは全然神に委せきりである。ただ彼は神にとっては一切が可能であることを信じている。可能性を信ずるということ、それが信仰というものである。そのときに神もまた彼を助ける。信仰者は絶望に対する永遠に確かな解毒剤、すなわち可能性を所有している、神にとってはあらゆる瞬間において一切が可能なのであるから。可能性の欠乏は、一切が必然的であるということかないしは一切が日常的になったということかのいずれかを意味する。宿命論者の神は必然性である。神とは一切が可能であるという意味であり、或いはまた一切が可能であるということが神を意味している。自己が精神となるまでに自己の本質が根柢から同様せしめられて、一切が可能であるということを理解するに至った人間のみが、神との交わりに入ったのである。神の意志は可能的なるものであるというこのことによって、私は祈りうるに至る。人間が自分の自己と神とに気づきうるに至るためには、神が想像力によって蓋然的なるものの靄の領域よりも更に高い所にまで駆り立てられ、かかる靄の領域からその外に救い出され、一切の経験の充全量を超越するものを可能ならしめることによって、望みかつ怖れることないしは怖れかつ望むことを学ばせられることが必要なのである。神の助けを通じて自己を或る破滅から救い出す。感性的なるものが人間においては大抵は知性より遥かに優勢である。錯覚の魔法が破れ、現存在が動揺し始めるとき、その底に潜んでいた絶望が直ちにその姿を現す。君は君の考えているよりも本当は遥かに多く絶望している。君の絶望は実はもっと深い所に食い込んでいるのだ。直接的な自己に何かが遭遇される、彼は彼を絶望に陥れるような何かに衝き当たる。彼を絶望に陥れるものは外から来る、絶望は純粋に外から受ける悩みである。直接的な人間の生活の中心（或いは、彼が反省を自分の内に持ち合わしているとすれば、生活のうちの彼が特に頼みにしている部分）が、「運命の打撃」によって彼から奪い去られるとする。彼は打撃を蒙り絶望する。或いはまた、直接性のかかる絶望は、直接的な人間があまりにも大きな幸運と呼んでいるものによって出現してくることがある。一体直接性というのはそのものとしては或る途方もなく脆いものなので、直接性に反省を要求するような「度を超えたもの」はすべて直接性を絶望に陥れるのである。奇妙な顛倒と完全な自己欺瞞によって、彼はそれを絶望と名付ける。絶望とは永遠的なるものを喪失することである。彼が自分を絶望していると語るとき、彼は自分自身をいわば死んだもの、自分自身の影だと考えている。ところが彼は実は死んではいないのである、彼のうちにはまだ息が残っている。もしも突如として一切がその姿を変え、〔彼を絶望へと追いやった〕一切の外的なものが消え失せ、彼の願いがみたされることにでもなれば、彼は再びよみがえるであろう。直接性は再び立ち上がって、生々と活動を始めるのである。絶望して気絶すること、これが直接性の唯一の戦術であり、彼の知っている唯一つのものである。やがて時がすぎてゆく。もし外からの助けが訪れることでもあれば、絶望者のなかに再び生命が戻って来る。彼は自分がやめていた所から始める。神の次には自己ほど永遠的である。絶望は外からの衝撃・事件によっても生起し、単なる反省によっても惹き起されうるという点に、この立場における進歩が存する。外的な諸関係によってひきおこされた受動的な挫折、或る程度までそれは自発的な働きであり行為である。或る程度の自己自身への反省、自己の自己に対する或る程度の省察が存する、或る程度のかかる自己内反省とともに分離の作用が始まり、それとともに環境と外界とその影響から本質的に独立したものとしての自己自身に自己が着目するに至る。自己が自己自身への或る程度の反省によって自己を身に引受ける心構えをするときに、それは自己の構造に必然性における、いわばこのもしくはあの困難に衝き当る。困難の前に人間は尻込みする。或いはまた彼の直接性を深刻に動揺せしめるような或ること、自己自身への彼の反省がなしえたよりももっと深刻に彼の直接性を動揺せしめるような或ることが彼に起ってくる。一切の外的なるものからの無限の抽象によって獲得されるところの自己についての意識、この自己は直接性における被覆せられたる自己とは逆に赤裸々な抽象的な自己として無限なる自己の最初の形態であり、自己が自分の現実的な自己をその諸々の難点と長所をも含めて無限に身に引受けるところの全過程における推進力である。彼は再び自分の家に戻って行く。彼は再び自分自身となった。彼は自分の自己を受け入れる、彼が自分の言葉で自己と名づけているもの、彼に与えられているであろう彼の素質・才能等々を受け入れる。青年は希望の幻影をもち、老人は想起の幻影をもつ。もし人間が実際に年とともに発展して、自分の自己についての本質的な意識へと成熟してゆくものだとすれば、それとともにより高い形態の絶望の可能性もまた発生してくる。地上的な或る物に関する絶望（個体的なるもの）と地上的なるものそのものに関する絶望（全体規定）との間には本質的相違が存する。自己が想像力の無限の熱情をもって地上的なる或る物に関して絶望する場合、この無限の熱情が個体的なるもの、この或る物、を全体としての地上的なるものに化する。すなわち全体規定は絶望者のなかに存し絶望者に帰属している。地上的なるものと時間的なるものとは、その本性上、まさしく或る物・個体的なるものへと分散する所以のものである。全体規定とは一種の思惟規定である。自己がまず現実的な喪失を無限にまで昂め、ついで自己は全体としての地上的なるものに絶望する。自己についての意識の内にもまた本質的な進展がなされる。彼が地上的なる或る物に非常に大きな価値を置くこと、それがすなわち永遠的なるものについて絶望していることにほかならない。永遠的なるものについて絶望するということは、自己についての観念、自己の内には何かしら永遠的なるものが存するということ、ないしはまた自己が何かしら永遠的なものを自己の内にもっていたということ、を有する。自己から地上的なるものが奪い去られたために人間が絶望するという場合には、兎に角もその絶望は外からでもきたかのように、実際はそれはいつも自己自身からくるのだが、みえる。自己がこのような自分の絶望に関して絶望するという場合には、この新しい絶望は自己から、直接的＝間接的に自己から、反動としてやってくる。この絶望は度が更に強まっているだけに、或る意味では、それはかえって救
