宇宙全体を包摂包括する包み込む彼だ。
こいつは心身症か、また一段と少年に若返った。また全身に力が満ちる、筋肉に染み込み渡り通り鍛え上がる、脂肪も引き締め締まる。意識ぶっ飛んで泰然自若のような顔をして常にビクビクしている。禅画家の描く空間は、永遠に不動でありながら、かつ活発溌地に生動し、息づいており、空虚・無相でありながら、有名なるものの根拠なのである。空間の故に、物体は絶対的な重みを持つ。空間の故にこそ、万物はそれぞれ意義深く重要なのであり、それらの内に顕現する宇宙的生命の表現となる。一切の存在者を生動させ、それらを通貫し、余すところなく踊り続けるものの〈舞踏なき舞踏〉である。空間とは無限な可能性を有する、信じられないほど充実した存在そのものなのである。空間とは、物体の核心、根拠、究極的本質であり存在基盤なのだ。観る者と観られる者という関係秩序も止揚される。空間によって周囲を取り囲まれた鑑賞者にとって、今や立処がそのまま〈中心ならざる中心〉となる。彼は今や、絵に内在して対象の鼓動と一つになる。観る者を取り巻き包み込んでいるものは、いわば永遠に変転してやまぬ彼自身の姿であり、観る者がそれとぴったり一つになるとき、彼はもはや、固有の意義を失って、その中に没し去り、その没入の中で、自分自身に出会いながら、自分自身を忘失して行く。限定されたものは無限定なものへと、有相なるものは無相なるものへと引き戻され、かくして、その根源と出自とが見えてくる。絵文字を真に読み取り得る者は、その見かけの静寂を通して、生と滅・起と還・成と壊との張り詰めた緊張を感得する。生成したものが、生滅の流転の中で、儚く自在に顫動しているかを感得する。夜という無差別の平等の中で、夜というこの一切の定有の母体たる無相の根源の中で、日中の個々の差別が消え失せる。差別は完全に止揚され根絶されて無に帰せしめられる。修行者は、今なお囚われている相対的な立場を超越する。数多の惨めな経験を通して、その為の心構えと素質とが培われて行く。我自体未知なものと化す。今この瞬間の姿を、あるがままに泰然と受け容れるのだ。発する磁場が強力になればなるほど、汝が緊張をとき、自己を発揮して行く媒体となり、汝が献身し、身を委ねて、導かれて行く予感された中心となる。内なる汝を強固なものにして行く。彼は、何か自分自身とは異なるものの力を自覚する。あるがままにあること、無作為であること、体と心と頭とが渾然一体となった際立って精神的な比類ないほど創造的な無作為である。正念を相続することによって、禅者は新たな土台を獲得する。これまでに修得したものを更に堅固にして行くことによって、内心の転換が成就される。この転換によって、新たな瞑想の修行が可能となり、その修行の歩みも以前より軽快かつ迅速なものとなる。悟りと一つになる。禅定に入った者の精神が、彼の体内の一切のものが、身体、感覚、知性が、彼という磁場に登場する一切のものが、はっきりと目覚めている。全身が冴え渡っている。彼は空になりきる。こうした状態を醸し出し、こうした状態になりうるのは、一人、瞑想を永年積み重ねた者だけなのである。その状態は、最高度に自由（空）であり、最高度に活発溌地として緊張し集中しており、その性向も、もはや有相として一挙に外に向かって発散するよりは、無相のまま無相なる磁場に溶け込むのである。完全に心身を脱落した者は、光を放つ深い闇の中にいるような感じに、あるいは自分が発光しているような感じに捉えられる。混乱の渦に巻き込まれ、無限の深みに落ち込んでいた彼は、まるで放り出されでもしたかのように、不意に我に返る。文字通り突然の覚醒であり、どっと冷汗すら流すことがある。精気を取り戻したかのような新しく生まれ変わったかのような感じだ。このようにして我に返り現実に引き戻される。こうした繰り返しによって、やがて、悟りの結果として、次のようなことが洞察されて来る。私の探し求めていたものは、この私の中に、そしてここにある万物の中にある。真理とは世界のこと、有でありながら無であり無でありながら有である。今や一切が遊戯のように単純な自明なものになる。絶対的な自由が満喫される。超越しながらその内にある。彼は自己を放擲している。彼の行為の主旋律は善意、惜しみなく与えれば与えるほど増していく比類ない善意と落ち着きと信頼と厳粛さとである。自尊しつつも自重して生活して行く。彼は更に修行を積み重ねて行く。彼は常に途上にある。こうした一切を越えて新しい経験が得られる。
