16歳丹田から広がる軌跡道程中心核枠！！
そのもの全体である俺から中心核である枠に集め集まる。今にも枠を中心核に移動し据えておく。この枠にだって過去には昔には良かった素晴らしかった時期が沢山あったのだ、頭脳精神肉体的に良かった素晴らしかった時期も今に合わせ合わさる、素晴らしかった時期が今なんだ。中心核枠に超凝集超圧縮だ。頭を良くしていく、どんどん頭が良くなっていくー、背を高くしていく、どんどん背が高くなっていくー、筋肉が付いていく、どんどん筋肉が付いて逞しくよろわれていく。逞しい長身を筋肉の鎧で固め固まる。枠も中心核と成り16歳から広がる軌跡道程と一つになれれば完全復活だ、そういう運命だったのだ。戦争において存在が示すことになる様相を包含するのが、全体性という概念である。西欧哲学は全体性の概念によって支配されている。西欧哲学にあって、諸個体は様々な力の担い手に還元される。その力が、知らず知らずのうちに個体に命令を下す。個体は、だからその意味を全体性から借り受けていることになる。究極的な意味だけが重要であり、最後の行為のみが諸存在をそれ自身へと変換するからである。諸存在は、かくして、叙事詩の形を纏って顕れるものであり、叙事詩のその形は既に可塑的なものとみなされている。全体性を取り囲む空虚においては、人は望むものを意のままに信じ、かくして、風のように自由な主体性が有する権利を押し進めることになる。終末論が存在との関係を取り結ぶのは、全体性の彼方、或いは歴史の彼方においてであり、終末論とは、全体性に対して常に外部的な一箇の余剰との関係である。全体性とは別の概念、無限なものの概念が、全体性からのこの超越を、全体性と同じように本源的なものである超越を表現すべきなのである。彼方は、全体性と歴史の内部、経験の内部にも映し出されている。終末論的なものは、歴史の彼方であり、そのことで、歴史と未来が有する審判の権利から諸存在を引き剥がす。終末論的なものによって、諸存在はむしろその十全な責任を目覚めさせられ、諸存在は責任へと召還される。歴史の総体を裁きながら、しかも歴史の終末をしるしづける戦争に対しても外部的であることで、終末論的なものは、それぞれの瞬間それ自体において、その瞬間各々の十全な意味を回復させる。一切の事案は、時が満ちて審理に付されている。裁きに関する終末論的な観念には、諸存在が一箇の同一性を有していることが含まれている。その同一性は永遠に先立ち、歴史の成就に先立っている。時が巡り終える前、時間がなお存在している間は、諸存在は自己を起点として互いに関係のうちにある。歴史を溢れ出してゆく存在という観念によって、存在のうちに巻き込まれていると同時に人称的でもある存在者が可能となる。その存在者は、自らの訴訟で抗弁すべく呼び出されており、既に成年に達している。全体性として理解された存在の内部での歴史の終末よりは、全体性を踏み越えた存在が無限なものと関係する。哲学者にとって、戦争と全体性の経験は、経験と明証と一致している。無限なものは、それを思考する思考を溢れ出してゆく。無限なものが溢れ出してゆくことで生起するものこそが、無限なものの無限化である。無限なものの観念によって主体性は、歴史の裁きから解き放たれる。全体性の観念と無限なものの観念とを区別し、無限なものの観念の側が哲学的に優位にあることを肯定する。生気とは存在の実現、生起するという動詞の両義性によって表現されているのは、ある存在体の存在が実現されると同時にその存在がそこで啓示される操作にまつわる、本質的な両義性なのである。無限なものの生起、無限なものの無限化が生起するのは、自分の同一性のうちに固定され分離された存在をも含み込むことになる。主体性とはつまり、含み込むことが可能である以上のものを含み込むという、驚くべき事柄を実現する。他者を迎え入れることとして主体性を啓示する。他者を迎え入れる主体性において、無限なものの観念が成就されている。自分の容量以上のものを含み込むとは、思考された内容が属する枠組みを不断に炸裂させ、内在の障壁を絶えず跨ぎ越えることである。
