ヒンドゥー教の思想家たちがブラフマンの永遠なる存在、およびブラフマンと万物の生成過程、絶対的存在、物的世界との関係に関心を寄せていた一方で、仏教は現世からの時間を超えた状態への救済を追求していた。有名な初転法輪において、ブッダは、人間のおかれている状況について四つの真理（四諦）を説いた。まず苦諦とは、この現実世界は苦であるという真理、そこには生老病死をはじめ、憎い者と会う苦しみ、愛する者と別れる苦しみ、求めるものが得られぬ苦しみ、人間の心身に起因する苦しみが数えられる。次に集諦とは、執着と欲望、すなわち快楽や情熱への執着、生存・非生存への欲望が苦の原因であるという真理である。第三の滅諦とは、苦しみを断つことが悟りへの道であるという真理、執着を断つ。最後の道諦とは、滅諦に至るためには、八正道を修行すべきであるという真理である。八正道とは、正見（正しい見解）、正思（正しい思惟）、正業（正しい行い）、正命（正しい生活）、正精進（正しい努力）、正念（正しい想念）、正定（正しい精神統一）をいう。これは統合と孤立へ導くヨーガの八実修法と似ているところがある。涅槃とはブラフマンとなること、完全なる覚醒を達成した暁には生死の輪（輪廻転生）が破壊されている。涅槃は峰の頂上、それは人の望みうるすべてを叶え喜びをもたらし光を灯し更に高遠かつ高貴にして無限である。涅槃において最高潮に達する平安は神自身に内在するものであると『ギーター』は述べている。仏教における神々は宇宙的輪廻（六道）の一部であって、ブッダはそのすべてを超えている。しかし実際には、ブッダは「神々の神」（天中天）と呼ばれ、人々の態度から、ブッダが機能上は礼拝の対象としての役割を満たしていることがわかる。ブッダは或いは涅槃にいてジャイナ教の聖者ティールタンカラと同様に無念無想の状態にある。彼は活動的な救世主というよりも寧ろ救済への道を示す道標である。仏教徒は「聖者の中の王」「闇を開く人」などと呼びかけ祈る。空の理論は、充実というより広い意味において、大乗仏教の中で広まった。現実の存在や観念の限界を越え、広大な空の中で自由になることによって、仏教哲学者たちはそこに仏性との同一を見出した。空を仏性、究極の涅槃であるとみなし、それが万物の中に存在すると説いた。同一（一如）という概念は万物における同じ仏性の内在を示すために使われた。万物は仏性をもっているか、潜在的なブッダである。ブッダへの道はすべてのものに開かれている。あらゆる時においてあらゆる生き物がブッダとなる種子をもっている。我々を涅槃へ駆り立て自由にするのは、我々の中に存在するブッダである。既に潜在的にはブッダであるからこそブッダになることができる。我々は愛する、なぜなら彼が先に我々を愛したから。神のことは神にまかせろ。『ギーター』におけるクリシュナやブラフマンと同じく、『法華経』のブッダは、世界の父、自分自身で生まれた者、救済者、すべての生き物の保護者と呼ばれる。幾百の苦悩に打ちひしがれ多くの苦悩に苛まれた人間を見て、勝れた智慧の力をもつ彼は察知して、神も共に住む世界において救済者となる。この慈悲深い存在は、彼を訪れる一切の衆生をいかなる悩みからも救う。彼はすべての存在を慈しみをもって見、あらゆる徳を満たしている。ブッダの智恵の実現は仏性との合一によってもたらされる。ブッダの超越身への神秘的参与は、ヒンドゥー教においてラーマーヌジャが説く、最高存在としての自己という説に類似している。道とは天の道（天道）であり、観念上のものであると同時に、宇宙の自然の秩序でもある。この道との調和と合一により、人と自然の万物との調和がもたらされる。道家は、最も有益な行いとは自己を浄化し、真理と幸福、自己と世界に対する力を獲得することだと答えるだろう。純粋意識に到達し、万物の内なる真実を見るために、意識の層の覆いを剥ぎ取ろうとした。内なる真実は究極の真理、絶対の至福と見なされており、それにより道士は事物を支配する能力を獲得できると考えた。道家は、「大同」「大道」「大母」などと名づけられた自然の根源的調和がもつ単純素朴への回帰に努めた。一切を放擲することによってすべての生き物を支配する力を獲得する。静寂を保ち無と同化する。善は水に似て、あらゆるものに打ち勝ち、すべての生き物を潤す。道を行うことは天道に従うこと、道によって統治された国は万人に満足を齎す。老子の『老子道徳経』一切万物の根源にあってそれを支配している道と強く合一する、聖人はすべてを放棄するからすべてを得、身を屈するから真直ぐになり、虚ろであるからこそ一杯に満たされる。聖人は太初の「一」をしっかり握り、天下のあらゆるものの規範となる。荘子に帰される道教第二の書『荘子』、改革を行うよりも現実の諸問題から超越しようとする。人間の精神の限界からの個人の自由を説いた。人間は絶対的な真理である道と合一して生きるという意味で、荘子は神秘主義者である。基本的な中国的考え方の一つに二元論あり、それは陰と陽、女と男、暗と明などの対立する二つの原理を想定し、これらの原理は偉大な道から生じたものである。これらの二元理はインドのサーンキヤ哲学における根本原質（自然）と純粋精神に比べることができ、サーンキヤ哲学では男性原理である純粋精神が根本原質から分離することによって自由が達成されるように、道教でも道との合一への回帰は男性原理である陽を通してなされる。有名な道教の経典『黄金の華の秘密』黄金の華の中に生まれた微細身である金剛体という観念、黄金の華は光であり象徴であり「超越的な偉大なる一者」の真の力である。もし陽の力が保たれたら、その時、人は陰陽の相剋から自由な黄金の華の地位に達し、再び偉大な一者である道の一部となる。これは神秘的な合一への探求であり一元論または汎神論である。道教の哲学者は、自然との調和および道との合一へ導く単純素朴と静穏を説いた。民間の道教は、占いと魔術の中にオカルトを求め不死を追求した。大衆の宗教としての道教は、歴史や伝説上の人物と並んで自然の事物や諸力を表した神々からなる巨大なパンテオンを作り上げた。道教はすべての自然の造化を賛美した。風景画は風景自身が道の調和を表すものと考えられ中国美術の中心となった。道を奉じているので、聖人は物事に調和する。心を純化しているので、賢者は造化を楽しむ。風景は物質的存在であり、同時に気韻の世界へ上昇する。すなわち、山や川はその造化において道に敬意を表し、文人はそれをよろこぶ。「もし人が意図的に菩提を求めれば、ブッダは輪廻転生の原因となる」むしろ一切の思慮分別を捨て、心をその赴くままにすることによって、坐禅者は究極の真理である空に到達する。古神道の神は自然、祖先、英雄、魔術といったきわめて多種多様なものを表している。同じ聖なる血が植物、動物、人間、神々を一貫して流れている。宇宙は生命に満ち溢れており、人はその生命を分有して、かつそれを特別の聖なる場所において崇める。六世紀に仏教が伝わると、神道の多くは埋没するか吸収された。インドや中国で仏教は幾つかの土着神を変容させたが、日本では事態が更に進んで、多くの神社や聖域が覆され、神仏習合の両部
