広げ広がり移動し切った16歳から中心核から全体全面まで一つの俺である。
時間の観念から解放される、全部の時間を過去も一時に感じられる、そうすれば過去も今に過去の自分も枠も今の自分と枠となる、それこそが人生の目標の一つだ。16歳丹田から中心核枠から全体全面まで俺、全体全面から中心核枠から16歳丹田まで一つの俺だ。わー、近くで見たら凄ーく綺麗で優しい顔してるんだ。ビジネス成功の鍵は、人と人の結びつきである。加えて、自由な発想と革新性、市場と資金、国際パートナーとの討論の場が不可欠だ。神秘的合一を達成することによって、世界内存在という境位を脱却する。そのように脱却すること、自己を忘じ、ついでその自己を再発見すること、死してのち再生することが、〈脱−自〉と呼ばれる。その時、人間が再発見するのは、自己という自らの本来的な中心である。つまり自己は、〈合一〉において止揚されるにもかかわらず、やはり依然として保持されているのである。神においては、もしくは合一を触発するものや触発する場をヨーロッパ神秘主義が名づけて呼んだ神性においては、自己は救済され恩寵に与り証される。すなわち神は、自らの独立独行の能力を究極至高の魂として捧げ、もはや抵抗しない魂の中にのみ生まれ給うからである。神の誕生が成就された暁には、魂は、神によって全権を賦与された中心として、あたかも自転する車のごとく、自立自存の生活を送るのである。それに反して、〈禅〉においては、人間存在そのものが脱自的、離心的である。人間が自らを自己として感得し、自己を高めて、可能なかぎり完全に近づけようと努めれば努めるほど、人間は決定的に、その中心から踏み出してしまい、ますます掛け離れて行くのである。禅者にとって、人間以外の一切の存在者が生きているのである。禅においては、〈合一〉は、帰家を、今は失われている根源的状態の回復を意味する。人間は、自己を我が身として感得し体験する。この擬我によって、人間は利己心へと、あらゆり非−我に対する先鋭化された形での自己主張へと、ひいては心の硬直化へと向かうことになる。やはりひそかに中心を嗅ぎ分け自ら中心たろうと志向する。自らの現実の姿と本来あるべき姿、それを達成するには根底からの変化、回心による。それ自体としては、言葉は思惟よりも乏しく、思惟は経験よりも乏しい。言葉はどこまでも言葉でしかない。禅者は永遠の遍歴者、禅の真理が真理であることを理解するには幾多の生死を必要とする。世界自体を、空なる空間を、最後には無限なる空間を表象し、それによって直観力を拡大して行く。直観力を磨くことは、精神の集中力そのものを高めるのみならず、後になって判明することだが、やはり神秘的合一体験者が現実の生活において行動するには、高度の直観力が必要になってくるのである。相対を絶した一者と相対的な二元との根本的な相違、悟りという目標はこれから先本当に達成できるのだろうか？じっと意を凝らす。今や一切が懸かってくる・・もはや命懸けだ！思慮分別よりは、体と心と頭が一丸となり気力を振り絞って、その問題に没頭する。彼の体内では思索が依然続けられている。忍耐と信頼とをもって、自然に実が熟して落ちて来るまで待つ。今や心境に変化を来す。解答がハッと思い浮かぶ。緊張が弾ける。その瞬間の途轍もない感情の高ぶり、身震いし冷や汗を流す。大歓喜もまた伴う。探していたものが一挙に見つかる。今や混乱していた一切が、はっきり見えてくる。いわば森が、一本一本の木でありながら、やはり森として、はっきり見えてくる。目から鱗が落ちる。解放された心地がする。一瞬の出来事であるが影響は後々まで尾を引く。新しい次元へ飛躍する。新しい視界は比較絶対を絶し筆舌を絶している。もし我々が事物の心理そのものに達せんと欲するならば、我々はこれを、この世界が創造される以前の、あれこれの意識が生じる以前の、心がその本来底、すなわち寂静と空の中に安住していた、まさにその立場から見なければならない。この視界においては、すべてが同じ重みを持つ。万物がそれぞれ絶対的な重みを有するかの感を与える。万物は一つの連関として透視できるようになる。この連関は、それらの物体の究極的な根源の深みにまで貫く。物体は、かくして根源から、つまり、それぞれの物体の中に開示される存在から見られ理解される。万物は、それ自体を超えて、その存在の根拠を志向する。その根拠は、根拠付けられた存在者を通してのみ把握される。悟りという再生によって初めて得られる第三の目が見るのは、存在者の実存、つまり存在の根拠なのである。万物の無相なる根源が近寄りがたく捉えがたいほど、有相なる万物は、いっそう捉えやすくなる。この高貴なる根源の光の内にあることによって、万物そのものは明るく照り輝く。根本において神秘的であればあるほど、万物は、いよいよ公然と自己を顕現する。万物が己がじしの道を行くにまかせる。万物をそれぞれあるがままに受け入れる。独自の無私な視線によって驚くほどの成功をみる。有機的自然界の限界を遥かに越えて、万物とその運命とに、極めて親密な交渉を持ち、完全な一体のレベルにまで高める（能動的にも受動的にも）。あたかも存在が存在者の中に自己自身を認め、見るという出来事を統括し、行っているかのような感を与える。彼にとっては存在こそ捉えがたい本質的な極であり、彼自身と彼が出会う一切のものは、有相的存在者という極をなしているのであり、その有相的存在者は彼と同様に根源に由来する。いかなる物体にも妥当することは、いわゆる自我についても同じく妥当する。自我もまた、悟りの視界の中で、澄み通って行き、その究極の深みにいたるまで明々白々となる。「不思善、不思悪の時、即ち、汝が、個体的自我として、世界内のこの特定な人間として、数多性と相対性との地平に現れる以前の、汝が面目は、如何？」他の有相なる存在もひっくるめて、それぞれ根源から直接的に経験される。行為の反復、想起、向上、強化、見、体験し、実感し、帰入するという、絶対的に非相対的で不可分な体験が、あらゆる主体的エネルギーを喚起して駆使する途方もなく強烈な体験が現前している。悟りとは、連関を絶した即今であり、省察を絶した刹那におけるまさしく非時間的なハプニングである。時間の流れは、まさしく自らのこととして、万物と生き生きと共鳴しながら、無限に途方もなく自己変容する中で感得される。〈悟り〉を可能にする精神的な脱落は、やがては〈悟り〉によって逆に強化され、深い内心の変化をもたらすことになるが、これは身体的脱落として反映される。完全な自己忘却、自己忘失の中で、相手と一つになる。永遠の相の下の演劇だ。修行を積み重ねて行けば、自らを中心として輪を拡げて行く磁場に、他のあらゆる人間や動植物〔有情〕を無生物〔非情〕をも抱え込めるようになる。〈悟り〉は直ちに、性格の大変革という内面の変化をもたらす。彼は、ますます自らの世界に閉じ篭もり孤独を求め孤独を愛でる。自分の居るその環境の中に孤独の場所を設け、その場を拡げて行く。その静寂の中で成熟して行く。悟りに悟りを積み重ねて行く。高次の悟りは、それぞれの性格に応じて極めて自然に達成される。
