心震えるほどに愛しいから。
枠も世界も常に更新しされ続ける。更新する枠、更新される世界だ。それが自分にとって避けがたいものであるならば、どんなに恐ろしい孤独と虚無への道であろうと、黙ってその道を一人歩き続けて行こう。運命愛、一つの決意であった。彼は絶対の危機に直面しながら、その絶壁から這上がり、自己再建への道を歩み始める。崩壊から再建への精神の歩みを記録した。バラバラに分裂散乱してから再構成再統一だ。彼の心は様々の関心へと分裂し散乱していく。このとき、彼の自我は崩壊に瀕していた。彼の精神は受動的な状態、内的傾向性に支配されて崩壊へと向っていた。自分は全ての親しい人々から見捨てられ沈黙した空間の中に投げ出されている、そういう悲しみに打ちひしがれ感情に流され自我が粉々に砕け解体され世界の中に溶け込んでいく。自己解体の極地において、自我が世界と根本的に一つになっていくという深い慰めが生じる。自我の再建が始まる。ここにおいて受動性から能動性への転換が行われる。自我を崩壊から救いだし再建していく。運命によって彼は崩壊の寸前まで、与えられた全き孤立の境地から救い出したものが運命それ自身、恐るべきこと、人間性の秘密を垣間見たもののみが知る戦慄である。〈大いなるもの〉が、人間の行く先々まで背後に回って彼をとらえつくしているのだとしたら、それは一つの大きな慰めではないか。ここにおいて自由と決定論が一致する。崩壊と統一が一つになる。彼は実に心の優しい人であった。誰に対しても謙虚で丁寧で優しい思いやりがある人だった。若いのに礼儀正しい奴だ。まったき偶然と見える有機体の組織を我々に理解しやすいようにするために、あたかも自然の根底に目的原因が作用するかのように考え、偶然的なものの法則性を打ち立てようとするのが反省的判断力の原理である。理性とは合目的な働きである。骨の髄まで染み込んでいる。直接に提示可能なすべてのものを体験とよび、経験と厳密に区別する。それは内からの促し、あるいは神の召明というような象徴的なかたちであらわれてくる。自己の体験で理解する。経験の中にある一部分が特に貴重なものとして固定し、その後のその人のすべての行動を支配するようになる。すなわち、経験の中のあるものが過去的なものになったままで、現在に働きかけてくる。それが体験だ。それに対して経験の内容が絶えず新しいものによって壊されて新しいものとして成立し直していくのが経験である。学問というものは経験の中から出てくる。正しい、そして深い経験から出て来る言葉は、形容するのが難しい一種の重みをもっている。それは、あるものを表現する言葉の本当の説明は事柄そのものの中にあるからである。現代の特徴は、形而上学や認識論というような伝統的哲学の本道を見捨てて、言語哲学、記号論、サイバネティクス、一般システム論、オート・ポイエーシス、人間機械論、情報論、認知哲学、有機的全体性の哲学、生命倫理、生命哲学、環境倫理、環境哲学、政治哲学、経済哲学、比較文明論、比較哲学、多元的価値論、歴史哲学、芸術哲学、美の哲学、技術哲学、エネルギー論、宗教哲学、神学、神秘哲学、その他にも数限りなく雨後の筍のごとく新しい哲学や応用倫理が輩出している。それぞれの問題意識が複雑に交差し融合したり分離したりしながら、とてつもない規模で錯綜している。知の最前線は複雑である。感覚的であるその同じ心が同時に理性的なのであり、すべての欲望は意志なのである。事象から文法へと展開していく。そして言語ゲームへと万象を収斂していく。すべての事象を超越論的意識の内容物にしてしまった。意識はどこまでも拡がっていき、すべての物を意識の内容物にしてしまう。しかも意識はあくまで私の意識であり、他者の存在さえも私の意識の内容物にしてしまう。世界を独我論的に構成する？相互主観的に同一の世界を構成？現象学的還元を経た後に取り出された存在である他者、自我の変様としての二次的なものである。総体として個別的なものも一気に理解し把握する。意識のスクリーン越しに世界を眺めているように思い込むが実は世界の中に直に生きて居るのである。世界そのものが喜ばしく悩ましい。ありのままの世界は情感的世界なのである。我々は深い根源的共同情感性に包まれてある。私はここで暫く神そのものの観想に耽り、その諸々の属性を心静かに孝量し、そして無辺なる光明の美を、眩惑せられた精神の眼の堪えうるかぎり凝視し賛嘆し崇敬する。荘厳なる神の観想のうちにのみ、世界の生活の至高なる浄福があることを我々が信仰によって信じているように、この世の生活において我々が享受しうる最大の喜びを享受しうることを我々は今にも経験する。時間は常に回帰的な時間である。意識以前の幼児のときの物との原初的接触のときを今に蘇らせ、過去へと帰っていく時間構造において生きている。心の深層にある根源的なものに繋がる。過去の自分自身である。その過去にやがて帰ってくるために遥かな彼方へと旅をし続ける。それは自分を探し出す旅であった。自分の生涯が最後にはそこへ向い帰っていく根源的なものであった。この道は、魂の奥底から、遥かな過去の簿明から、未知の未来時に向って投げかけられていくのである。此処に到達するまでに私は暗い辛酸を極めた長い期間を横切ってこなければならなかった。純粋に主観的な美の感覚が私の肉体的精神的な能力の凡てを意識的に統御していくことに場を譲っていく。この過程は我々の全分野に現れる。謂わば我々の過去を定義する。私の生の本質的な部分をこの過去に投入すること、これを《過去相に戻る》と呼ぶ。それはまた未来に導くものでもあるから、同時に《未来相に到る》ことでもある。過去あるいは過去性は、我々の実存の真只中から立ち現れて、我々の実存を過去の方へ運んでいく。凡てが正に凡てが過去という大海に流れ込む。過去こそが力の源泉であり行く先でもある。過去に向って抗いがたく引かれていくこの動きを仏教では《業》（行為）と呼んだ。過去を通り現在から未来に到る。〈他人は地獄だ〉というサルトル的発想からいけば、風景の中に生き続けることは一つの理想、現実にその夢想が実現したとなれば話は別である。今苦境（精神的）にあるのだ。彼の魂はともすれば悲しみの情念に揺り動かされて動揺していた。しかし、すべてが粉々になって世界の中に溶け込んでいこうとする、その果てにおいて、すべてが失われた寂寞たる空間の上に不思議な明るみが現れ忽ち辺り一帯に拡がっていく。自分が世界と一つになっていくという悲しい深い慰めがどこからともなく訪れてきたのである。古代人がもっていた宇宙的感覚にたとえる。彼は風景に一人佇んでいる。辺りの空間一杯に広がる静寂の中でじっと孤独をかみしめている。ただ人間であろうとするときに、人間が孤独に陥る必然性をもっているとするとどうであろうか。彼はただ自分に与えられた究極の〈愛のかたち〉にしたがおうとしているだけなのだ。それはこの世に生まれおちた、その瞬間に既に与えられていた始源的感覚に深く根ざすものであったのである。孤独は限りない悲しみであると同時に一つの深い慰めとなる。悲嘆と慰めが一つに融け合って、その奥からある感動が迸り出てくる。
