ここには世界のすべての目的が集まり来た顔がある。
凄ーく綺麗で優しい顔した背の高ーい若い男の子です。それでも常人には想像を絶する理解を超える世界に生きて居る。切羽詰ったな・・限界を超え越えた、タイムリミット期限は過ぎた、完全に新たな領域に入った。この目の前の壁を障害障壁を突き破れ乗り越えろ！！内面も外見も能力も時期によって毎日毎日激しく移り変わり行く・・恐ろしく変化の激しい性情も、生れてから16才から更なる進化成長発達発展の為だ。枠ごと世界に解け溶け融け込み一つに同化する。全部の苦しみから逃れられる、求めていた場所に行き着ける、本人の望み通り理想通りになる。内面には宇宙、力は無限、無限の能力、全体と合一し全面を埋め尽くす。インターネットにも沢山書き込み入れ印刷し続けたから、知り理解し尽せる筈、株も分かれ動かせる筈だ。全時代的に世界の枠の全部の時期あらゆる頃あらゆる時の姿が今に存在している。全部の世界は今の世界に全部の枠は今の枠に現存している。16歳は宇宙最高の一点、今は全時代的時間空間的全面であり更に時空間を超越した全体である。過去からも未来からも16歳だけに集め集まった、極限まで超圧縮された一点、16歳も今に存在している。16歳が創り造り作り出し上げた中心核に枠が移動して、16歳丹田から広がる中心核枠となり完成する。全部の時期あらゆる頃あらゆる時の世界も枠も今に居る有る存在する。過去の全部の自分も今の自分に、過去の全部の枠も今の枠に、全体に、道は唯一それだけだ。他は未だだとしても、枠の歴史、枠の軌跡道程だけは枠のものだ。枠は16歳から生まれ始まり広がっている時空連続体なのだ。過去の全部の枠が幾層何層無限層にも積み上げ重なっている今の枠なのだ。枠の歴史こそが枠の軌跡道程こそが今の枠なのだ。時が経つほど時間が流れるほど、歴史が軌跡道程が積み重ね上げられ枠になっていく。枠ごと中心核に入り込み一つに同化する。俺の枠の中から内から内部から外から外部から鍛え込み抜き上げ変質しさせ繋げ繋がり結び付け付き一つ！！そのもの俺！！中心核枠！！16歳丹田！！一つの全体から枠を中心核に矯正するのだ。過去の何時の時期にだってなれる、16歳にもなれる。そのものも俺も中心核枠だけに何もかも全部集め集まる集中集合集結するさせるされる。そのものの中で中心核だけが、俺の中で枠だけが、そのもの俺の中で中心核枠だけが、存在している、唯一無二の存在である。枠は少し集まる場所に過ぎず、中心核だけに絶対圧倒的に集まってしまう、中心核も枠も一本化するんだ。枠も、16歳に意識を集中して丹田として、軌跡道程も枠となり、中心核としなって完成される。16歳に集中し軌跡道程も枠になり中心核枠として完成される。赤く熱く若い！高慢！自尊！焦燥！衝動！憧憬！が同居し、何より汗だくのリピドーに塗れている。そのもの全体まで広げ広がり切り全面を埋め尽くせれば、枠も中心核まで移動出来る。全部の過去が今に押し寄せ集まって来る。全部の過去も今に集中集合集結！！仏教ならびにヨーガ派において必要とされる精神統一は、この両者の教えによると、それ以外の諸々の力を集中集結することと関連しているが、このことはまさに梵行によって実現されるのである。精神統一を追求するものにとって、梵行こそ本当に力の本源である。梵行によってブラフマンの超感覚的な世界を発見するということは、既に古いバラモン教の聖典に出ている。つまり、梵行という言葉そのもの自体にも、今問題にしている思想の基本が言い表されているわけである。それは、人を感覚性という低級の生活に隷属させようとする諸々の力の支配から脱却するものが、そのことによって、感覚的なものの領域を超越する世界に到る道を切り開く、ということなのであって、自己の中にある低級な本性を克服した聖者の前には超感覚的な神々もひざまずくことになるのである。外面的および内面的の清浄、タパス、神聖な聖典または文句の読誦、および主宰神の礼拝である。主宰神というのは、神たる支配者、主人、ヨーガの本源的な尊師である。主宰神の特徴として強調されている点は、煩悩と業の応報とから離脱していること、萠芽として誰にでもそなわっている一切智つまり全智が主宰神の場合には極度に発達していることである。意識的に根本源と合同一させる。優れた物語には相手を共感させ、感情移入させる力がある。障害を乗り越えながら、願望の実現を目指す。固定観念を突き破る不思議な力がある。現状を打開し、可能性を追求すること。日々繰り返される日常から私たちを解き放ち、想像力を掻き立て、無限の可能性を与えてくれる。チャレンジ精神の塊も、葛藤を繰り返しながら、自らの器を大きくしていった。自分自身を理解し、自分の感情を上手に利用することで、自分が本来持っている能力を最大限に活かすことができる。仏陀は悟りを開くに先だって、難行苦行のあらゆる段階を自分でとことんまで経験した。生きていることのために背負わされた苦悩、業によって背負わされた苦悩というものは、浄化されるための手段であるとして、甘んじてこれを受けとる。修行者が目標に近付くことができるのは、倫理的行為と霊的自制と智とを完成することによってできるものである。内面的にあらゆる憎しみとあらゆる敵意とを克服し、慈愛深い心を持つ者のみが解脱に達する見込みがある。仏陀はどんな場合でもいつも思慮深く自覚して〔正念正知〕おられた。肉体と心霊との領域で行われるあらゆる生命の表出に意識を遍満させ、潜在意識の中にあるもの全て掘り出して、その表出を意識的なものの段階にまで高める。精神統一と瞑想との様々の段階において、思慮深い自覚を保持する。
