だが心は深く傷付きズタズタに切り裂かれバラバラに分裂していた。
精神は自我であるという規定を見出す。自我は完全に単純で一般的なものである。自我があらゆるものを自分の生命をさえ捨象することができるということが自我の一般性を形成しているのである。精神は自己内で区別されている。自我は自分自身を自分に対立させ、自分を自分の対象にし、且つ確かに最初は抽象的な区別から自分自身との統一へ復帰する。自我がこのように自分の区別作用のなかにあっても自分自身のもとにあるということは、自我の無限性または観念性である。この観念性は最初は、自我に対立する無限に雑多な素材に対する自我の関係のなかで確証される。自我がこの素材を捉えることによって、この素材は自我の一般性によって毒殺されると同時に浄化され、また個別化された独立的な存在を失うと同時に精神的な現存在を獲得する。それ故に精神は、自分の表象の無限な雑多性によって、自分の単純性から自分自身のもとにあることから引き出される。精神は宗教的意識として、事物の外見的には絶対的な独立性を貫いて、事物の内面において働いており且つすべてのものを統合しているところの神の唯一の無限な威力に到達する。精神は哲学的思惟として、事物の共通な原理を形成している永遠な理念が事物のなかにいかに表現されるかという限定された仕方を認識することによって、あの観念化を完結する。精神の観念論的本性は既に有限な精神の中で活動しているのであるが、この本性はその認識を通して、完結した最も具体的な形態に到達する。また精神はこの認識を通して、自分を自己自身を完全に捉える現実的理念にし、そしてこのことによって絶対的理念にする。既に有限な精神においても、観念性は自分の端初へ復帰する運動という意味をもっている。そして精神はこの運動を通して、最初の肯定としての、から他者へ、その肯定の否定へ、進展しつつ、且つその否定を介して自分自身へ復帰しつつ、自分を絶対的否定性、自分自身の無限な肯定、として明示する。そして我々は有限な精神のこの本性に適応して、有限な精神を最初には自然との直接的な統一において考察し、次には自然に対する対立において考察し、最後にはその対立を止揚された対立として自己の中に含み且つこの対立によって媒介された〈自然との統一〉において考察すべきである。こういうふうに理解されることによって有限な精神は全体性として理念として、そしてもとよりあの対立から自分自身へ復帰しているところの独立に存在している現実的な理念として認識される。有限な精神においてはこの復帰はただ始まったばかりである。この復帰は絶対的精神において始めて完結される。絶対的精神において始めて、理念は自己を区別された契機（概念または主観性、客観性または現実性）の完全な統一性において、すなわち絶対的な真実態において、捉えるからである。キリスト教的な神学もまた神すなわち真理を精神として把握し、自己を自己自身から区別する作用の過程・自分の他者を措定する作用の過程に必然的に立ち入り、そしてこの他者によっておよびこの他者を維持する止揚によって始めて自分自身に到達するようなものとして考察するということが想起される。神学は、表象の流儀にしたがって、この過程を周知のように、父である神（この単純に一般的なもの・自己の内部に存在するもの）は自分の孤独を放棄しつつ、自然（自己自身に対して外面的なもの・自己の外部に存在するもの）を創造し子（自分の他我）を産出するが、しかし自分の無限な愛によってこの他者のなかに自分自身を直観し自分の自分の似姿を認識し、そしてこの似姿のなかで自分との統一へ復帰するというふうに表現している。この統一はもはや、抽象的直接的な統一よりも、区別によって媒介された具体的な統一として、父と子とから出発しキリスト教的教団において完全な現実性と真実性とに到達する聖霊である。もし神が絶対的真実態において捉えられるべきであるならば、すなわちもし神が独立的に存在する現実的理念として捉えられるべきであるならば、そしてもし神が概念と現実性との完全な一致において捉えられるべきであるならば、その時は神は聖霊として認識されなければならない。我々は、精神が自然の観念性を否定し、自然を自分に同化させ、そしてそのことによって自然を観念化するといった。この観念化は、自然を自分の外部に措定する有限な精神においては一面的な形態を取っている。ここでは我々の意志および思惟の活動に対して外面的な素材が対立する。世界歴史を作り出す精神の場合には別の関係が発生する。
