またあの16才のように無限の能力も得て16歳までまた大きく若返れる。
枠も枠のうちで、世界も世界のうちで、全部の時期が連続している。それぞれその中で内で内部で全部の時期の自己が連続している。中心核に枠ごと集中する。他人にマイナスを向けられるのが苦しいよ。全部の時期も中心核枠に集め集まる集中集合集結する。枠としては、16才以上になって愛し合いたいだけだ。寝て起きたら、今日今この瞬間にも、16歳に中心核に全体全面に神にそのものに成っていることを、頭良く背高く筋骨逞しく顔美しくなっていることを、祈る。16才では超頭良く優れていたんだ、背高く筋骨逞しく若く美しかったんだ、全部の過去も今に、全部の過去以上の今である。16才から大きく高く強く逞しく美しく進化成長発達発展し広げ広がり移動し切った。16才とも軌跡道程とも出来上がり完成しつつある中心核とも強く深く繋がり結び付いている、後は一つに合一するだけだ。昔よりも過去の何時の時期よりも、16歳を軌跡道程を出来上がり完成しつつある中心核を把捉できるようになった、全部の過去の記憶も今の現実のように鮮やかに甦って蘇って来たし、これからだ、もう少しあと少しだ。本質の絶対的な規定はあらゆる経験のうちに、すなわちあらゆる現実および概念のうちに必ず見出されるものである。運動は存在する矛盾そのものである。内的な自己運動、本来の自己運動、推進力一般とは、或るものが、同一の見地において自分自身のうちにあるとともにまた自分自身の欠如であり否定者であるということにほかならない。肯定的なものがそれ自身否定性であるということ、このことによってはじめて肯定的なものは自己の外へ出、変化のうちに自分をおくのである。だから、或るものは、自分のうちに矛盾を含んでいるかぎりにおいてのみ、しかも矛盾を自分のうちに容れ、持ちこたえる力であるかぎりにおいてのみ、生動的である。思弁的思考とはまさに、思考が矛盾をしっかりとつかみ、しかも矛盾のうちで自分自身をしっかりと保つことである。すべて一つのもののうちに対立を含んでいる。一方の規定は他の規定との関係においてのみ存在し、両規定の存在は一つのものの成立である。思考する理性は、差異的なものの言わば鋭い区別、表象のたんなる多様性を、本質的な区別すなわち対立にまで鋭くする。多様なものは、矛盾という頂点にまで推しやられて相互に対して動的で生き生きとしたものとなり、矛盾のうちで自己運動と生動性の内在的脈動である否定性を得るのである。すべてはその十分な根拠を持っている。存在するものは根拠へ帰る。根拠の充足性ということを、主として、機械的な作用様式としての厳密な意味での因果関係に対置した。彼が求めたのは諸原因の関係、本質的な統一としての全体、目的であった。人が見たり感じたりするものは、規定された質料、すなわち質料と形式との統一である。質料は受動的なものであり、形式は能動的なものである。自然が世界であるためには、その上なお多様な諸規定が外からそれにつけ加えられる。あらゆるものはあらゆるものと普遍的に全面的に生き生きと結びついており、この結びつきが、人間の諸概念のうちに反映される。そして世界を把握するためには、これらの諸概念も同じく磨きをかけられ仕上げられ屈伸的で動的で相対的で互に結びつけられ、対立のうちに統一されていなければならない。もしあらゆる事柄のあらゆる条件が現存すれば、それは現存在するようになる。現象は物自体が何であるかを示すもの、あるいは物自体の真理である。現象の世界には自己のうちへ反照された、自体的に存在する世界が対立している。一般に証明とは媒介された認識である。現象は、まずその現存在のうちにある本質である。現象は、仮象と現存在との統一である。諸現象のうちにある統一性・・この統一性は現象の法則である。法則はだから現象するものの媒介性のうちにある肯定的なものである。法則という概念は、人間が世界の過程の統一性、連関性、相互依存性、および総体性を認識する諸段階の一つである。法則という概念の絶対化、単純化、偶像化と格闘しているのである。法則とは現象における恒久的なもの（永続するもの）である。法則とは、現象が自己との同一性のうちへ反照したものである。現象が自分自身との同一性のうちへ反照したもの。法則は現象のうちに直接的に現存している。法則の国は現存する。現存するものは、その根拠としての法則に帰る。現象は二つのもの、すなわち現象する宇宙の単純な根拠と、根拠がその本質性をなしているところの現象する宇宙の分解内容を含んでいる。法則とはだから本質的な現象である。諸現象のうちに見られる宇宙の運動は、この本質性においては、法則である。法則とは、世界の運動のうちにある本質的なものの反映である。現象は全体、総体である。法則は部分である。現象は法則より豊富である。現象は法則を含み更に自己運動する形式というモメントを含んでいる。自体的な世界は現象の世界と同一であるが、同時にまたこれと対立している。前者において肯定的なものは後者では否定的である。現象の世界で悪であるものは自体的な世界では善である。現象する世界と本質的な世界とは、いずれも現存在の独立の全体である。各々はその他者のうちで自己を連続させており、したがって各々はそれ自身でこれら二つのモメントの同一性である。両者は始めには二つの独立的な存在であるが、しかし両者は全体的なものとしてはじめて独立的な存在なのであり、そして両者がこのような全体性であるのは、その各々が本質的に他者のモメントを自己のうちに持つかぎりにおいてである。ここで根本的なことは、諸現象の世界も自体的な世界も、人間による世界の認識の二つのモメントであるということ、すなわち認識の変化あるいは深化の二つの段階であるということである。自体的な世界が諸現象の世界からますます先へと移動していく。現象の真理は本質的な関係である。全体と部分との関係、力とその発現との関係、内的なものと外的なものとの関係、ここから実体、現実性へ移っていく。関係の真理はだから媒介性にある。力は、そのうちへ全体と部分との矛盾が解消している否定的な統一であり、全体と部分という最初の関係の真理である。あらゆる自然的、科学的、および精神的発展一般において。現実性は本質と現存在との統一である。絶対者とは絶対的に絶対なものである。属性とは相対的に絶対的なものである。普通、一つの極端から他の極端へ走るものだ。ある哲学原理の一面性には、普通反対の一面性が対立しており、あらゆる場合にそうであるように、全体的なものは普通少なくとも分散的な完全性として存在している。現実性は有よりも現存在よりも高次のものである。実在的な必然性は内容の充実した関係である。絶対的必然性はだから、そのうちへ現実性と可能性一般、および形式的な必然性と実在的な必然性が帰ってくるところの真理である。その展開のうちで、自分が必然性であることを示す。現実性の諸モメントの全体、総体。自然の内的な調和と法則性のより立ち入った洞察へ進む。展開された現実性は、内的なものと外的なものとが一つのものとなる交互転化、一つの運動へ合一されている両者の対立的な運動の交互転化として、必然性であ
