またどんどん異常な状態に追い詰め込まれていく・・何だ、こりゃ。
16才から中心核が出来上がったら枠ごと移動する。十代から二十代の全部の良い時期も枠にある。世俗的苦悩を克服するのに必要な戦いに勝ち抜く。苦悩についての真理の中には道が含まれ、逆にまた、道の中には苦悩についての真理が含まれている。仏教の教理面と実践面とは一つの輪をなして相互に関連している。苦悩の教理の中には、仏教の英知の法がすべてそっくり含まれている。仏陀は菩提樹の下に坐り、今や洞察的ないし瞑想的な観点において彼の眼前に存しているところの世の苦悩の起源を思念する。瞑想の中で、彼はかの十二支分の系列にその起源を見い出す。仏陀の認識を因縁の形で説く。仏教では、生成、つまり生起のみが実在であり、精神的生起のことである。たとえば“有”は我々が“存在”と名付けるものに対応するが、本来的には“生成”という意味である。超感性的なものが段階順序を経て降下し、まずはじめにはまだ超感性的な生成状態にあり、段々に濃縮され形成されてゆく生成状態になり、しまいには感性的ないし可視的な粗大な物質となり、肉体となり、身体を構成するに到る。我々が肉体的物質と名付けるもののうちで、仏教にとって本来的に実在するものは、ただ苦悩のみである。仏教で感官と言えば、身体に属すものだけでなく、肉体が成立する以前に超感性的存在者の中に既に独立に存在しているものをも含む。心は行から離脱して、渇愛の滅尽に到達した。ヨーガは瞑想を実践的に実習し、かの潜在意識の中に入り込み意識にまで高める。霊的存在者の中に、苦悩についての無知が存在していたために、かの生成過程がよびおこされ、霊的な生成と形成との様々な段階を経て、ついに肉体上の存在ないし現世の誕生という苦悩に到達した。世俗を超越して高度の霊的観照する際に、瞑想する者に対して現れてくる過程なのである。このように観照された真理は、次には、個々それぞれの人間形成ないし（仏教でいう意味での）再生という具体的事例にも適用される。作用し形成し組成されるところの迷妄の力が行となって現れる。現在の色々な表象作用は、ひとたび忘却されると、潜在意識の中に沈下し、そこで形成力〔行〕として活動を続け、あるいはまた刺激を与えられれば再び意識上の想起を形成するが、それと同じように欲情と妄念とのあらゆる活動も、その痕跡を潜在意識の中に留め、いわば潜在意識となった生涯の回想のようになり、将来の生涯と運命に対して形成力として作用する。仏教でも前提となっている業と行との教理である。縁起の心理的様相と宇宙発生的様相は同一である。仏教者が自分の内面を沈思して瞑想する際に、自分自身の個性的存在の生起に関する秘密を見出すと同時に、世界の生起と消滅とのすべてに関する秘密を見出すからである。個人の生成（生まれ変わり）、世界の生成、苦悩と死との生起、この三つが縁起として一つにまとまっている。瞑想は高度な能力、ことに高度な知識〔智慧〕に到達するための手段であり前段階である。修行者が正しい努力によって道の終点に達した時に得らるべき尊い目標を達成して解脱するための前段階であり手段である。仏教で言う苦悩の真理を認識することによってただちに心が清らかになり、解脱の自覚〔解脱知見〕とに到って究極的最高点に到達する。解脱は最高度の意識性の状態である。解脱した者は自分が解脱していることを承知している。あらゆる生きものを束縛する暴力からの解脱、生老病死という苦悩の絶えまなき繰り返し輪廻の中に生きものを縛りつけておく暴力からの解脱である。今既に現在この世で“現実の状態”〔現法〕において、かの尊い目標すなわち“聖なる修行の最高の完成”に到達し、それを実現する。涅槃は修行者が現にこの世において生きているあいだに体験することのできる実際の状態なのである。“現世における涅槃”〔現法涅槃〕である。愛欲は大きな深い泥沼にたとえられ、怒りと絶望〔悩〕とは嶮しい絶壁にたとえられる。涅槃は平坦で喜ばしい平野にたとえられる。深遠で寂静で崇高で賢者だけが知る。肉体において既に体験される涅槃を認め、肉体をもって不死の領域〔甘露界〕に触れる。仏教で実在物というのは、超感性的現象の精神的連関、いわゆる“法則性”〔法〕のことである。示されている道を進んで次々に修行の様々な成果を挙げたのち、ついには解脱の自覚、すなわち涅槃に到達する。この境地そのものは、宗教的修行のあらゆる成果のうちで最高のものと称せられる。まず虚無の領域にまで到達し、更にその領域を超越してより高い霊的領域に上昇する。仏教の修行者に漲っている感情は“常住なるものへのあこがれ”なのである。およそ無常であるところのもの、それはすべて仏教にとっては苦悩に満ちている。仏教で言う涅槃つまり解脱とは、無常なるものの領域から脱出すること、“存在”の（感性的ないし超感性的な）あらゆる領域から脱出することである。その領域は、生死輪廻が行われている場所であり、それを欲界・色界・無色界と名付けるのである。広い意味で仏教が“有”と名付けるものはすべて三界に属している（欲有・色有・無色有）。欲界・色界・無色界を越えたところに輪廻とは別の界があり、涅槃に入る時にそこに到達し、それは常住な解脱の尊い界であるが、仏教では滅尽界とも涅槃界とも呼ぶ。すべてのものは燃えている、感覚器官もすべて燃えている、そしてそれと同時に感覚器官による知覚もすべて燃えている、すべてのものが欲情と憎悪と妄想と無常と苦悩との火によって燃えている。感覚を放棄することによって修行者は解脱し、解脱したという自覚〔解脱知見〕に達する。積極的な存在、永遠の解脱の崇高な領域、死を超越した無限の世界、無余依涅槃界、甘露界（不死の領域）、苦悩の終わりである。心霊を最高に克服することによって、あらゆる存在者を束縛する威力から解脱した者に与えられる勝利の栄光である。菩薩はいずれも、悟り〔菩提〕を開く生涯には型にはまった順序に従って次々に体験する。仏陀になるまでの発展は、世界法則にもとづき定められた生成過程を経て実現される。現在なお菩薩として兜率天に滞在していて、未来の世に仏陀として出現する者は、その名を“慈愛に満ちたる者”〔弥勒〕という。仏教の教理によれば、遠い未来の世に一人の偉大な世界の師が出現する。心から放射される愛情が四方上下などあらゆる方角にあまねく行き渡り、心情ないし心霊が無限に拡がって全世界を愛情の心で満たす。修行者はかの崇高な遍満的な高貴な世界的慈愛へ昇ると同時に、無量の領域である涅槃に到達する。現実を超越する。
